「ここはどこ?」・・思わず「私は誰?」と続けたくなるような言葉なんですが…これを発したのは2歳さん・男の子。おさんぽ劇場は「ももん&カミナリ」で三重県・東員町の幼保を巡演中。桑名市の北西に位置する当町には、幼稚園・保育園が同居した公立施設が6園ある。子ども園的であるが、在園児は幼・保どちらかに属している。と云っても保育時間が違うだけで、園の一体感は普通にある。…で、冒頭の言葉を聞くに至った経過は・・・
舞台の仕込みを終え、手を洗いにテラスに出る。すると男の子が近づき「虫!」…目を向けると、小型のカミキリのような虫が天井に張り付いている。ジイ「あぁ、いるね」男の子「音を出すと動く」と言い、手に持った積み木(?)で柱を叩く。虫はそれほどは動かず、しかし触角の動くを見て男の子「ほらね」まぁ同意する外なく「おぉ、動いたねぇ」…そんなこともあり、開演時刻まで余裕があったので、持ち合わせのおもちゃ的人形を持って来て、2歳クラスの窓ガラス越しにチョットだけパフォーマンス。目ざとく見付けた子たちが押し寄せる。こちらが人形で「パクパク」と食べる動作をすると、向こうの子たちは我さきに手を出す。手を食べて欲しいのだ。キリがないので「お腹いっぱい」と言って終演となる。が、興味津々な子が人形劇会場までついてきた。ステージがセットされた室内が普通と違っているのを見て「ここはどこ?」となったのです。…最近覚えた言葉なのでしょうね。
そんな園の上演。「ももん」は、ハンドベルをバチで鳴らしながら始まる。通常、最初は期待と緊張で静か→ベル音が賑やかになると笑い声、てな感じ。ところがその日は、先生の「お願いします」に呼応してステージの縁まで進み、ベルを叩こうと構えただけで笑い声。あんまり楽しいので、構える動きを何度かすると、その度に会場には大笑いが巻き起こる。嬉しい反応だったが、興奮しすぎると疲れちゃう?そんな心配もなく、最後まで楽しいステージでした。
2025年06月12日
2025年06月09日
ウサジイの公演日記#1142
【ウサジイ昔ばなし】〈146〉・・・美術スタッフW
そして工房太郎。多くの劇団と仕事をされ、全国的に知られたユニット。構造に強い吉田太郎氏&色の感覚に優れた守津綾氏のタッグが見事でした。最近、太郎氏の訃報に接したばかりですが…ジイの思い出を中心に。
当劇団との出会いは「ぶんぶく茶がま」(1999年)。演出の劇団員が海外のフェスに観劇参加した帰途、機内で座席が近く雑談したのがきっかけ。ジイが遣っていた人形=和尚は、掌が木製でモノを掴みやすく、有るのか無いのか判らないような目は、飄々とした和尚を演じるのにピッタリだった。作中で破れる掛け軸には、サントリー烏龍茶の謳い文句が描かれているのだが…試作段階では「陳義信」(=ドラゴンズ)と書かれていた。名古屋の劇団への配慮だったのか?
以降、ジイは次の3作品でお世話になった。「いえでだブヒブヒ」…舞台セットの三角柱ジャングルジムを、アルミ材で見事に組立て式に。「ジャックと豆の木」…主人公のカシラが側面優先のデザイン(魚みたいに正面顔に弱い)で、ご本人も納得のひとつ。工房HPの表紙を飾っていた。「赤ちゃんゴリラのゴリゴリ」…アースカラーで幕類・衣装などを統一、カラフルな人形たちもジイ一押しのひとつ。(この時代に本ブログを始めたため、役名=ウサジイを筆名としている)・・その後も劇団は数多くの作品でお世話になったんですが、神戸居住と離れているためチェックはネット通信が活躍。動作確認の動画を送ってもらったりしてた。そう云えば太郎氏、名古屋へ来ると大須の電気パーツ屋へ寄ることもしばしば。パソコンいじりも好きだったんです。
そして工房太郎。多くの劇団と仕事をされ、全国的に知られたユニット。構造に強い吉田太郎氏&色の感覚に優れた守津綾氏のタッグが見事でした。最近、太郎氏の訃報に接したばかりですが…ジイの思い出を中心に。
当劇団との出会いは「ぶんぶく茶がま」(1999年)。演出の劇団員が海外のフェスに観劇参加した帰途、機内で座席が近く雑談したのがきっかけ。ジイが遣っていた人形=和尚は、掌が木製でモノを掴みやすく、有るのか無いのか判らないような目は、飄々とした和尚を演じるのにピッタリだった。作中で破れる掛け軸には、サントリー烏龍茶の謳い文句が描かれているのだが…試作段階では「陳義信」(=ドラゴンズ)と書かれていた。名古屋の劇団への配慮だったのか?
以降、ジイは次の3作品でお世話になった。「いえでだブヒブヒ」…舞台セットの三角柱ジャングルジムを、アルミ材で見事に組立て式に。「ジャックと豆の木」…主人公のカシラが側面優先のデザイン(魚みたいに正面顔に弱い)で、ご本人も納得のひとつ。工房HPの表紙を飾っていた。「赤ちゃんゴリラのゴリゴリ」…アースカラーで幕類・衣装などを統一、カラフルな人形たちもジイ一押しのひとつ。(この時代に本ブログを始めたため、役名=ウサジイを筆名としている)・・その後も劇団は数多くの作品でお世話になったんですが、神戸居住と離れているためチェックはネット通信が活躍。動作確認の動画を送ってもらったりしてた。そう云えば太郎氏、名古屋へ来ると大須の電気パーツ屋へ寄ることもしばしば。パソコンいじりも好きだったんです。
2025年06月08日
ウサジイの公演日記#1141
【ウサジイ昔ばなし】〈145〉・・・美術スタッフV
おばらしげる(小原滋)氏。きっかけは不明だが、初回「石の馬」の仕込み時に人形製作の助っ人として現れた。大きな石の馬をウレタンで切り出し、ラテックス(液状ゴム素材)を塗って仕上げていた。初めて見る材料に驚いたが、話を聞けばTV等にも関わる制作工房の一員であったらしい。(旧い方はご存知かと思うが、8時だよ全員集合の「ジャンボマックス」製作にも関わっていた)…元々は教職に就いていたが、関東の人形劇団に入り、それから工房に移ったようです。(この辺り、順序等に勘違いあるやもしれず)で…そのあと劇団と専属契約を結び名古屋へやって来た。という訳で正式には劇団員ではなかったが、ほぼ劇団員いや古参劇団員のような存在でした。人形工房の主として数多くの作品に関わり、新しい工作機械の導入・素材の紹介等々…現在の人形・道具製作システムの基盤を作ったように思う。何年か後、独立して人形工房「アトリエ羅道」を設立、中部地域の劇団を中心に人形を提供。とともに、身体にハンディーあるメンバーの人形劇団に協力、ハンディーに見合った操作方法の人形を開発している。
そんな氏も人形劇人。デザインだけでなく操作・表現を第一義に考えていた。第二期「悟空誕生」(1989年)花果山のサル群の中で、ジイはサブリーダー役。サル人形の持ち手の位置・角度などについて注文を出すと、嬉しそうに応えてくれ…「遣い手のレベルには合わせるんだ」チョット嬉しい一言だった。第二期「西遊記」ジイは沙悟浄。当時の三蔵法師ご一行の人形が、遣い手と似ているとの意見も聞かれたが…「役者の出す声からイメージすると、同じような骨格になりやすい」などと話してくれた。
それから思い出すのは、四川そば!劇団の台所で、賄い的に振舞ってくれた。中華鍋でザーサイ等を炒めて具を作るのだが、材料の入手先は限られている。ジイが旅公演で横浜にいた時、携帯電話のない時代にどういう経路か不明だが、氏から連絡が入った。「中華街の@@の方に***って云う店があるから、そこでザーサイを買ってこい」それもかなりの量。とにかく買って帰ったことだけは覚えている。
おばらしげる(小原滋)氏。きっかけは不明だが、初回「石の馬」の仕込み時に人形製作の助っ人として現れた。大きな石の馬をウレタンで切り出し、ラテックス(液状ゴム素材)を塗って仕上げていた。初めて見る材料に驚いたが、話を聞けばTV等にも関わる制作工房の一員であったらしい。(旧い方はご存知かと思うが、8時だよ全員集合の「ジャンボマックス」製作にも関わっていた)…元々は教職に就いていたが、関東の人形劇団に入り、それから工房に移ったようです。(この辺り、順序等に勘違いあるやもしれず)で…そのあと劇団と専属契約を結び名古屋へやって来た。という訳で正式には劇団員ではなかったが、ほぼ劇団員いや古参劇団員のような存在でした。人形工房の主として数多くの作品に関わり、新しい工作機械の導入・素材の紹介等々…現在の人形・道具製作システムの基盤を作ったように思う。何年か後、独立して人形工房「アトリエ羅道」を設立、中部地域の劇団を中心に人形を提供。とともに、身体にハンディーあるメンバーの人形劇団に協力、ハンディーに見合った操作方法の人形を開発している。
そんな氏も人形劇人。デザインだけでなく操作・表現を第一義に考えていた。第二期「悟空誕生」(1989年)花果山のサル群の中で、ジイはサブリーダー役。サル人形の持ち手の位置・角度などについて注文を出すと、嬉しそうに応えてくれ…「遣い手のレベルには合わせるんだ」チョット嬉しい一言だった。第二期「西遊記」ジイは沙悟浄。当時の三蔵法師ご一行の人形が、遣い手と似ているとの意見も聞かれたが…「役者の出す声からイメージすると、同じような骨格になりやすい」などと話してくれた。
それから思い出すのは、四川そば!劇団の台所で、賄い的に振舞ってくれた。中華鍋でザーサイ等を炒めて具を作るのだが、材料の入手先は限られている。ジイが旅公演で横浜にいた時、携帯電話のない時代にどういう経路か不明だが、氏から連絡が入った。「中華街の@@の方に***って云う店があるから、そこでザーサイを買ってこい」それもかなりの量。とにかく買って帰ったことだけは覚えている。
2025年06月07日
ウサジイの公演日記#1140
【ウサジイ昔ばなし】〈144〉・・・美術スタッフU
何作品にもわたり、お世話になった方も…。そのひとりが(恐らく)30年近く付き合いのあった、岡田紀元氏。ジイ入団前からだから、きっかけは判らない。デザインの仕事をされており、日赤病院に関係する人形劇団「いずみ座」の一員だった。同じ地域の人形劇仲間で、年齢も当時の当劇団若手(ジイの先輩)と同じ位だったので、自然と交流が始まったのだろう。(昭和28年生まれの、自称ニッパチトリオ=岡田氏・当劇団のM氏・人形劇団PのK氏)スリムな体形で、ベルボトムのジーンズが印象的。飯田カーニバルでは、歴代のバッヂを付けたチューリップハットを被り闊歩していた。
ジイが親しく出逢ったのは「雪をんな」。夕方になると、一升瓶を手に大根山稽古場へやって来て、和紙人形のカシラの中身を削っていた。カッターナイフの刃だけを使って、凹凸を無くす作業を根気強く…傍らの湯呑み(=日本酒)にも手を伸ばしながら。その酒がまた超こだわりで、ジイもご相伴に預かりました…ウンチクを聴きながら。そういえば、当時の幼児作品リーフレットは氏のデザインでした。優しい雰囲気のレタリング、劇団員の似顔絵も記憶に残っている。
数多くの幼児作品の他、初回「石の馬」の人形美術を担当。演出/関矢氏の「なんか、ぼんやりとした顔つきが良いんだけどね…」を受けて、彫の浅い、目鼻を筆で描いた博多人形のような(?)感じのカシラを創ってくださった。葛藤しながら成長してゆく主人公=ロロ。色んな顔つきを想像させるためには、丁度良い風合いだったんじゃないだろうか。大変お世話になった岡田氏、人形美術から手を引いた後は整体師のような仕事をしていた。
何作品にもわたり、お世話になった方も…。そのひとりが(恐らく)30年近く付き合いのあった、岡田紀元氏。ジイ入団前からだから、きっかけは判らない。デザインの仕事をされており、日赤病院に関係する人形劇団「いずみ座」の一員だった。同じ地域の人形劇仲間で、年齢も当時の当劇団若手(ジイの先輩)と同じ位だったので、自然と交流が始まったのだろう。(昭和28年生まれの、自称ニッパチトリオ=岡田氏・当劇団のM氏・人形劇団PのK氏)スリムな体形で、ベルボトムのジーンズが印象的。飯田カーニバルでは、歴代のバッヂを付けたチューリップハットを被り闊歩していた。
ジイが親しく出逢ったのは「雪をんな」。夕方になると、一升瓶を手に大根山稽古場へやって来て、和紙人形のカシラの中身を削っていた。カッターナイフの刃だけを使って、凹凸を無くす作業を根気強く…傍らの湯呑み(=日本酒)にも手を伸ばしながら。その酒がまた超こだわりで、ジイもご相伴に預かりました…ウンチクを聴きながら。そういえば、当時の幼児作品リーフレットは氏のデザインでした。優しい雰囲気のレタリング、劇団員の似顔絵も記憶に残っている。
数多くの幼児作品の他、初回「石の馬」の人形美術を担当。演出/関矢氏の「なんか、ぼんやりとした顔つきが良いんだけどね…」を受けて、彫の浅い、目鼻を筆で描いた博多人形のような(?)感じのカシラを創ってくださった。葛藤しながら成長してゆく主人公=ロロ。色んな顔つきを想像させるためには、丁度良い風合いだったんじゃないだろうか。大変お世話になった岡田氏、人形美術から手を引いた後は整体師のような仕事をしていた。
2025年06月01日
ウサジイの公演日記#1139
【ウサジイ昔ばなし】〈143〉・・・美術スタッフT
人形劇には人形が(基本的には)必須。集団創造の場合は、メンバーでデザインしての製作もある。スタッフを立てる場合も、劇団内には人材が多い。そもそも人形劇に係る者は、モノ作りの好きな者が多い。けれど新しい色合いを求めて、団外にスタッフを依頼することもある。そんな中、一度(or2回)きりの出会いだった方も何人か。印象に残るのは…
ジイが入団した年、最初の「西遊記」が制作された。(記憶が確かならば)前作「悟空誕生」に引続き、増原彬陽氏の美術。入団直後とて氏の詳細は知りえていないが、デザイナーであり演出家であったようだ。作品創造の中で演出/関矢氏の思想に共感し、それを地域での演劇講座に取り入れた。その中から生まれた劇団は、今も元気に活動している。なお、荒々しい中にも愛嬌あるデザインは、当時の荒削り(?)な若者メンバーにマッチしていた…と思う。
ジイも演じた「ガリヴァー」では、グラフィックデザイナーの杉田圭司氏。相当に高名な方だったようで、同席しての作業は少なかったが…「フウイヌム=馬の国」の馬作りでのこと。径5oのアルミ線で全長2m程の馬を何頭も作った。デザイン画をベニヤ板に写し、それに沿ってペンチで曲げてゆくのだが、なかなか思うに任せない。たまらず「まぁ、チョットぐらい良いか」と呟いた瞬間、向こうから鋭い視線が!いつもは「あぁ、良いですよ〜」と鷹揚な氏の目が厳しかった。一同沈黙の後、きっちりと曲がるよう苦慮したのでした。
その後しばらくして、水谷泰三氏が「世界にパーレただひとり」。人形劇団「ランダム」を主宰し、丁寧な美術に定評があった。ハンチング帽+顎鬚の大きな体。大根山の稽古場にやって来て、工房などでコツコツと作業をしていた。印象に残るのは、大きな月の書割り。まるで写真のような精密な描写で、〈こういうテイストもあるんだ〉と認識を新たにした。因みに「ウニマ年鑑」(日本ウニマ発行)の表紙・ロゴは、氏の手による。
人形劇には人形が(基本的には)必須。集団創造の場合は、メンバーでデザインしての製作もある。スタッフを立てる場合も、劇団内には人材が多い。そもそも人形劇に係る者は、モノ作りの好きな者が多い。けれど新しい色合いを求めて、団外にスタッフを依頼することもある。そんな中、一度(or2回)きりの出会いだった方も何人か。印象に残るのは…
ジイが入団した年、最初の「西遊記」が制作された。(記憶が確かならば)前作「悟空誕生」に引続き、増原彬陽氏の美術。入団直後とて氏の詳細は知りえていないが、デザイナーであり演出家であったようだ。作品創造の中で演出/関矢氏の思想に共感し、それを地域での演劇講座に取り入れた。その中から生まれた劇団は、今も元気に活動している。なお、荒々しい中にも愛嬌あるデザインは、当時の荒削り(?)な若者メンバーにマッチしていた…と思う。
ジイも演じた「ガリヴァー」では、グラフィックデザイナーの杉田圭司氏。相当に高名な方だったようで、同席しての作業は少なかったが…「フウイヌム=馬の国」の馬作りでのこと。径5oのアルミ線で全長2m程の馬を何頭も作った。デザイン画をベニヤ板に写し、それに沿ってペンチで曲げてゆくのだが、なかなか思うに任せない。たまらず「まぁ、チョットぐらい良いか」と呟いた瞬間、向こうから鋭い視線が!いつもは「あぁ、良いですよ〜」と鷹揚な氏の目が厳しかった。一同沈黙の後、きっちりと曲がるよう苦慮したのでした。
その後しばらくして、水谷泰三氏が「世界にパーレただひとり」。人形劇団「ランダム」を主宰し、丁寧な美術に定評があった。ハンチング帽+顎鬚の大きな体。大根山の稽古場にやって来て、工房などでコツコツと作業をしていた。印象に残るのは、大きな月の書割り。まるで写真のような精密な描写で、〈こういうテイストもあるんだ〉と認識を新たにした。因みに「ウニマ年鑑」(日本ウニマ発行)の表紙・ロゴは、氏の手による。
2025年05月30日
ウサジイの公演日記#1138
【ウサジイ昔ばなし】〈142〉・・・シゲさん
木村繁氏。当劇団にとどまらず、広く演劇界で活躍された方です。その辺りに関しては知りえないことも多く、ここでは主に劇団員としての活躍に限り話すとします。ジイが初めて出会ったのは、入団まもない頃、何かの稽古を南区役所講堂でしていた時のこと。丹下進氏が連れて来たのか?片隅に座り、こちらを眺めている方がいた。上着はカーキ色・厚手のジャケット、髪はかなり長くボサボサ、いかにも演劇界のヒトった感じでした。(実を言うと、原人的な風貌だと思った)その後「雪をんな」の脚本家として会い…事情は不明だが、入団することになる。その頃、本人からか?入団までの略歴を聞いた。長野県飯山市生まれ・日本福祉大に入るも直ぐに退学・上京して演劇の勉強・前進座に籍を置いたことも・鶴舞座創設に際し協力を請われ名古屋へ…記憶はあいまいですが、こんな感じ。丹下氏の実家が鶴舞にあったので知り合ったのかな?
入団後は脚本・演出の仕事を請け負った。伝統芸能にも造詣が深く、初期は尾張漫才や花祭りの踊りを取り入れたモノを創作。当時計画していた土日稼働班や小学校向け五人班にピッタリだった。大人向け作品や、客員・譚志遠氏演じる作品も思い出される。ジイとは「せんたくねずみ」。幼児作品だったためか「俺よぅ、チッチャイ子のことは良く判らねぇんだ。芝居は創るから、変だと思ったら言ってくれよな」…創造に対して厳しい反面、人としては優しい方だった。(一部からは「極度の恐がり」だとも言われる)
劇団にいる頃から外部との協同も多く…「まちんなか演劇祭」では何作か上演しているが、ジイは「セメン樽の中の手紙」に出演。人形無しの冷や汗ステージでした。その他、パペットアーク校長(=人形劇界が作った人形劇養成施設)・愛知人形劇センター理事長などでも活躍。能力と人柄あってのことだと思う。個人の力量で活動できたのに、65歳まで在籍し定年退団。律儀な性格ゆえなのか?この劇団が好きだったのか?…退団後、一層活躍されていたが、70代半ばで逝去された。
木村繁氏。当劇団にとどまらず、広く演劇界で活躍された方です。その辺りに関しては知りえないことも多く、ここでは主に劇団員としての活躍に限り話すとします。ジイが初めて出会ったのは、入団まもない頃、何かの稽古を南区役所講堂でしていた時のこと。丹下進氏が連れて来たのか?片隅に座り、こちらを眺めている方がいた。上着はカーキ色・厚手のジャケット、髪はかなり長くボサボサ、いかにも演劇界のヒトった感じでした。(実を言うと、原人的な風貌だと思った)その後「雪をんな」の脚本家として会い…事情は不明だが、入団することになる。その頃、本人からか?入団までの略歴を聞いた。長野県飯山市生まれ・日本福祉大に入るも直ぐに退学・上京して演劇の勉強・前進座に籍を置いたことも・鶴舞座創設に際し協力を請われ名古屋へ…記憶はあいまいですが、こんな感じ。丹下氏の実家が鶴舞にあったので知り合ったのかな?
入団後は脚本・演出の仕事を請け負った。伝統芸能にも造詣が深く、初期は尾張漫才や花祭りの踊りを取り入れたモノを創作。当時計画していた土日稼働班や小学校向け五人班にピッタリだった。大人向け作品や、客員・譚志遠氏演じる作品も思い出される。ジイとは「せんたくねずみ」。幼児作品だったためか「俺よぅ、チッチャイ子のことは良く判らねぇんだ。芝居は創るから、変だと思ったら言ってくれよな」…創造に対して厳しい反面、人としては優しい方だった。(一部からは「極度の恐がり」だとも言われる)
劇団にいる頃から外部との協同も多く…「まちんなか演劇祭」では何作か上演しているが、ジイは「セメン樽の中の手紙」に出演。人形無しの冷や汗ステージでした。その他、パペットアーク校長(=人形劇界が作った人形劇養成施設)・愛知人形劇センター理事長などでも活躍。能力と人柄あってのことだと思う。個人の力量で活動できたのに、65歳まで在籍し定年退団。律儀な性格ゆえなのか?この劇団が好きだったのか?…退団後、一層活躍されていたが、70代半ばで逝去された。
2025年05月26日
2025年05月25日
ウサジイの公演日記#1137
香川県・東部にある人形劇場とらまる座にて、「ともだちや」を5日5st公演。最初の3日間は、主に地元の幼保・小学校低学年が観劇にやって来る。土日は一般の親子。劇場は、人形劇ミュージアム等もある「とらまるパペットランド」にあり、そこそこ一日過ごせる施設なんです。・・・1985年に当時の大内町青年組織が「レクリエーションと人形劇のカーニバル」を開催。その後、拠点となるとらまる座が開設される。2000年代に入り、養成施設を構想していた人形劇界が主導する財団法人が管理運営を任され、博物館などを併設した複合施設となる。諸事情により人形劇学校=パペットアークは9期を以て閉校。その後は、卒業生などで構成される法人が管理運営している。・・・という訳で、今でも全国の人形劇団が上演にうかがっているのです。(なお、初代の学校長は当劇団のS氏でした…その件は、後日)
ジイは初期に「ジャックと豆の木」や「赤ちゃんゴリラのゴリゴリ」などで4回ほどうかがっているが、近年はさっぱり。おさんぽ劇場は初めてだから、15年ぶりだろうか?だというのに、パペットランド内はもちろん、市街地の様子も覚えているもんですねぇ。3日目までは集団観劇…毎年のようにやって来ている子たちが多く、くつろいで観てくれました。ホール公演は普段と勝手が違うんですが、子ども達の反応に助けられたかな。午前だけの公演で、午後はフリーなので…2日目=市内東部・引田の商家・讃州井筒屋敷を見学。3日目=足ををのばして屋島まで、プチ観光の日々。土日の一般公演は、集客が読めない…し、そもそも集客が難しい。それでも、両日とも35名ほど入ってくれました。原作の力かな?
公演前には博物館も覗いたり…劇人形展示だけでなく、様々な形で人形劇遊び・人形作りができる環境になっている。そこで出会った女の子。集団観劇でお母さんと観てくれたとのこと。スタッフの話では、家が近く常連だという。一人で遊んでいたのでジイが仕掛けると、人形を手に対抗してきた。お母さん曰く「やや難聴で落ち着かず、昨日は初めてホール観劇できた。この施設は環境が良いので、連れてきやすい」と。博物館内の小劇場では、スタッフのミニパフォーマンスもある。一緒に観に行くと、その子は手遣い人形を携えていて、舞台の表現に対して人形で反応していた。人形劇が日常の一部になっているとはスゴイ!
ジイは初期に「ジャックと豆の木」や「赤ちゃんゴリラのゴリゴリ」などで4回ほどうかがっているが、近年はさっぱり。おさんぽ劇場は初めてだから、15年ぶりだろうか?だというのに、パペットランド内はもちろん、市街地の様子も覚えているもんですねぇ。3日目までは集団観劇…毎年のようにやって来ている子たちが多く、くつろいで観てくれました。ホール公演は普段と勝手が違うんですが、子ども達の反応に助けられたかな。午前だけの公演で、午後はフリーなので…2日目=市内東部・引田の商家・讃州井筒屋敷を見学。3日目=足ををのばして屋島まで、プチ観光の日々。土日の一般公演は、集客が読めない…し、そもそも集客が難しい。それでも、両日とも35名ほど入ってくれました。原作の力かな?
公演前には博物館も覗いたり…劇人形展示だけでなく、様々な形で人形劇遊び・人形作りができる環境になっている。そこで出会った女の子。集団観劇でお母さんと観てくれたとのこと。スタッフの話では、家が近く常連だという。一人で遊んでいたのでジイが仕掛けると、人形を手に対抗してきた。お母さん曰く「やや難聴で落ち着かず、昨日は初めてホール観劇できた。この施設は環境が良いので、連れてきやすい」と。博物館内の小劇場では、スタッフのミニパフォーマンスもある。一緒に観に行くと、その子は手遣い人形を携えていて、舞台の表現に対して人形で反応していた。人形劇が日常の一部になっているとはスゴイ!
2025年05月23日
2025年05月22日
ウサジイの公演日記#1136
【ウサジイ昔ばなし】〈141〉・・・こんな仕込みも…A
1980年代後半「モンキーキング」:当時の小学校公演班がカナダ・チルドレンフェスティバルで上演するため、「悟空誕生」+「西遊記」の短縮ヴァージョンを仕込んだ。ほとんどの道具などを新たに作り直す。そのため、同時期に幼児作品「さるかにばなし」他1本を仕込む予定のジイ達も手伝いに入る。おかげでレパの方は、2週間・超特急で仕込むことになるのだが…。大変だったのは、むしろ手伝いの方でした。仕込み終盤、通じない台詞をカバーするために、ステージ上に広げる字幕を製作。ホール対応のため、文字ひとつが15cm〼ほど・長さ5〜6m。布に絵具で描くと云うものでした。ニジミ防止で礬砂(どうさ)を塗ってあるのだが、紙に描くようにスラスラとはゆかない。それが何十枚もある。最後の一週間は、ジイ達数名は劇団工房に泊まり込み。朝方、やって来た役者に出来た分を渡し、そのままそこで寝る。昼過ぎに起きて、作業再開てな感じでした。そうそうある時、純正カフェインなるモノが出現。それを飲むと確かに眠くならないのだが、覚醒したまま手先だけが動かなくなり、役には立たなかった。‥‥そんな汗と涙の結晶、結局現地では使われなかったとか。
1990年代前半「名古屋心中」:劇団創立25周年(だっけ?)記念作品。「西遊記」班のうち、ジイ含む4名・幼児作品3人班×1・その他数名(新人2名含む)で、8〜9月の長丁場で創った。初めての文楽人形操作にも苦労したが、そんな人形を20数体作るのが大変だった。・・・なんて書き始めたが、調べてみたら「#960〈78〉」に出ていた。そちらをご覧ください。
ので、テーマから外れるが…ジイが属している「おさんぽ劇場」の最初の作品(2011年)が「ぶんぶく茶がま」「おばあさんとマリーちゃん」になった理由は…仕込み時期が大型作品「ピノキオ」と丸被り。劇団内には、スタッフも手伝い人材も全く期待できない。メンバー二人だけで創るためには、人形・道具などが残っている作品のリメイクが良かろう。どちらも3人編成の作品だったので、それなりに工夫は必要でした。この時に得た2人班の秘訣は「使うモノは役者の近くに置く」(=袖まで移動しない)そして演じる上でのコンセプトは「舞台芸術と云うよりは芸能」これらは、形は違ってもずっと継続しているような気がしています。
1980年代後半「モンキーキング」:当時の小学校公演班がカナダ・チルドレンフェスティバルで上演するため、「悟空誕生」+「西遊記」の短縮ヴァージョンを仕込んだ。ほとんどの道具などを新たに作り直す。そのため、同時期に幼児作品「さるかにばなし」他1本を仕込む予定のジイ達も手伝いに入る。おかげでレパの方は、2週間・超特急で仕込むことになるのだが…。大変だったのは、むしろ手伝いの方でした。仕込み終盤、通じない台詞をカバーするために、ステージ上に広げる字幕を製作。ホール対応のため、文字ひとつが15cm〼ほど・長さ5〜6m。布に絵具で描くと云うものでした。ニジミ防止で礬砂(どうさ)を塗ってあるのだが、紙に描くようにスラスラとはゆかない。それが何十枚もある。最後の一週間は、ジイ達数名は劇団工房に泊まり込み。朝方、やって来た役者に出来た分を渡し、そのままそこで寝る。昼過ぎに起きて、作業再開てな感じでした。そうそうある時、純正カフェインなるモノが出現。それを飲むと確かに眠くならないのだが、覚醒したまま手先だけが動かなくなり、役には立たなかった。‥‥そんな汗と涙の結晶、結局現地では使われなかったとか。
1990年代前半「名古屋心中」:劇団創立25周年(だっけ?)記念作品。「西遊記」班のうち、ジイ含む4名・幼児作品3人班×1・その他数名(新人2名含む)で、8〜9月の長丁場で創った。初めての文楽人形操作にも苦労したが、そんな人形を20数体作るのが大変だった。・・・なんて書き始めたが、調べてみたら「#960〈78〉」に出ていた。そちらをご覧ください。
ので、テーマから外れるが…ジイが属している「おさんぽ劇場」の最初の作品(2011年)が「ぶんぶく茶がま」「おばあさんとマリーちゃん」になった理由は…仕込み時期が大型作品「ピノキオ」と丸被り。劇団内には、スタッフも手伝い人材も全く期待できない。メンバー二人だけで創るためには、人形・道具などが残っている作品のリメイクが良かろう。どちらも3人編成の作品だったので、それなりに工夫は必要でした。この時に得た2人班の秘訣は「使うモノは役者の近くに置く」(=袖まで移動しない)そして演じる上でのコンセプトは「舞台芸術と云うよりは芸能」これらは、形は違ってもずっと継続しているような気がしています。

