2025年06月28日

ウサジイの公演日記#1147

【ウサジイ昔ばなし】〈149〉・・・アレコレ続々
子ども・おやこ劇場公演等に際し、交流会が設けられることがある。直後に公演会場での感想会・前ノリ日の夕食会・午前公演後の昼食会・公演日の夕食会など。コロナ下では控えられていたが、少しづつ復活してきた。舞台を観て頂くだけでなく、作品や劇団活動への想いを伝えられる場です。反対に劇場さんの状況や想いは、創造に反映できる。とともに、劇団を介して他団体等に拡散できる。双方の活動にとって重要な役割でもある。
さて、ジイ若かりし頃の記憶に刻まれた件は…1980年代中盤「石の馬」の宮崎県、日向市か宮崎市か?曖昧なのだが、当時間々あった青年ブロックとの交流会。(=劇場は地域割されたブロックで構成されているが、それとは別に劇場全体の青年層で作られる集団)ジイ達とは年齢も近く、大変盛り上がった。九州とくれば焼酎!飲み屋閉店後、アーケード(0時頃だと云うのに果物の露店が開いてた)を通って劇場事務所へ移動。そこでも酒盛り、相当に飲んだようだ。そのまま十数人がごろ寝、起きたのは…「じゃ、行ってきます」と云う青年の声。事務所からの出勤だったんです。さすが南九州!と感心した記憶。
夜遅くまでの宴は南方に多い。2000年頃「ぶんぶく&ケロすけ」で鹿児島県・徳之島。実は前年に第一回の杷木フェスに参加、そこからの繋がりで九州数カ所〜奄美のコースを回った。で、さすが島は熱い。劇場役員さん数人と夜半まで盛り上がり、別れる時にはハグする勢いでした。それから5年ほど後、「ぶうぶ&101ちゃん」で初めての鹿児島祭典・奄美大島宇検村。実行委員会=青年団は観劇よりも重要な(?)交流会のために、ジイ達の舞台仕込み時と並行して料理を準備。豪華な海鮮が並んでいました。それから15年ほど経って再訪。同じく青年団と交流、「ナンコ」で遊んだ。彼らは前回は観てくれた子達だったのだろうか?…まだまだ各地で‥‥ですが、これにて。
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2025年06月25日

ウサジイの公演日記#1146

【ウサジイ昔ばなし】〈148〉・・・アレコレ続
その頃は地元の小学校公演も、それなりにオファーがあった。けれど子ども・おやこ劇場公演が増えると、地元と疎遠になる。そうした時期を経ると、劇場公演が減っても小学校との繋がりを回復するのに時間がかかった。大きな教訓として残っている。
ところで劇場公演…旅公演先の休日というと、楽しげな響きがある。確かにジイも、様々な所を訪ねて色んな経験をしている。が、それが難しいケースもあった。今では「この休日だけど、どこで泊まる?」と調整もするが、当時は公演地に留まっての宿泊が当り前。一日をどう過ごすか?考え込む土地もあった。(頑張れば遠出もできたんでしょうが…)例えば、紀伊半島南端の串本町:今考えれば風光明媚な橋杭岩・潮岬を控えているのに、紀勢本線駅近くを散歩していたような。徳島県・吉野川沿いの池田町:山と谷を望む旅館で、当時出始めたゲームボーイ1台をシェアして時間を潰したような。いずれも断片的な、薄っすらとした記憶です。それから道東・網走:博物館網走監獄や海岸に行った記憶はない。あるのは、駅前の商店街。平日昼間ゆえ市民の姿は少なく、ここそこで出会う班のメンバー。何度も出会い、バツの悪い気分だった。
一方、さすがにアクティブだった沖縄:取分け初回「石の馬」は、役者=飛行機で往復・トラック=船便で、公演前後に2日づつ空き日が出る。(荷物が無くては地元公演もできないが、早めのノリは贅沢だったなぁ)到着した日に宿入りすると、ホテルのオーナーがワゴン車を貸してくれる。劇団への配慮だったのか?その車でメンバー一同、那覇近隣を観光する。当時県内には那覇の他、浦添・沖縄市にも劇場があり3公演終了。丸一日空いた日、ジイはレンタバイク・ツアー。(確か¥2000/12時間ほど?)砂浜があったら泳ぐつもりで、海パンにTシャツ姿で原付にまたがり、那覇〜南部を回った。帰り着く頃、道なりに走っていると目の前にゲートが見える。近づくと米兵が現れ、(優しく)止められた。ん〜、銃は持ていたような…。  ※…もうチョットつづく。
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2025年06月23日

ウサジイの公演日記#1145

【ウサジイ昔ばなし】〈147〉・・・劇場アレコレ
先日のTVで、東京都・千代田区が話題にのぼった。千代田と云えば都心も都心、首都圏に疎いジイは〈へぇ、人が住んでるんだ〉などと呟いてしまったが、思い返せば千代田区の子ども(おやこ?)劇場で上演したことがありました。40年近く前の当時も他区に比べて人口は少なかったが、大型(8〜9名編成)作品を取り組める規模の劇場さんでした。古めの区民センターのような会場で、床保護のためガムテ禁止…どころか、テープ類全面禁止だった。それはタテマエとして、職員さん「パンチ貼れないと困るよね」と、見なかったことにしてくれました。(時効です!)・・・そんな所から幾つか思い出す件があり…遠い過去ゆえ思い違いアリ・旧自治体名で・劇場さん閉鎖後に別の形で活動アリかも等々お許しを。
1990年前後、子ども・おやこ劇場は全国に次々と生まれていた。そんな頃に「石の馬」〜「西遊記」で巡演でき、有難い経験をさせてもらったジイです。劇場発祥の地・福岡市では、少年文化会館で一週間連続の例会。会館付近が長浜でラーメンのプレハブ小屋(?)があった。替え玉用のスープはテーブル上・ヤカンに入っていて、ご自由に!でした。当地の役員さん「将来的には中学校区に一劇場を見据えています」そんな勢いがあったんです。
都市部にとどまらず、例えば岐阜県・神岡町。山あいの人口数千人の街に、人口比5%近い会員数の劇場が組織され、「悟空誕生」を呼んでくれた。(←しかも雪の残る季節に!)当時岐阜県には全市に劇場があり、町村へと広がる勢いがあったんです。とは言え地域により事情は様々。北海道や九州北部の炭鉱を抱える地域では経済衰退・人口減少から、すでに劇場閉鎖が話題に上ることも。…近年「ももん&カミナリ」ツアーの帰り道、夕張市に寄ってみた。閑散とした市街地に感じるは、文字通りトキノナガレでした。※…つづく。
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2025年06月16日

ウサジイの公演日記#1144

引続き、東員町を巡演中。開演前、担当の先生との打合せでは「入場に不安のある子がいたら下見も可能ですよ」と伝えている。いつもとは違う風景の会場に、見知らぬ者がいるのだから、用心深くなる子がいるのは当然だ。その日は先生と共に、Tちゃん(4歳・女の子)がやって来た。恐がっている様子はないが、こちらの問いかけには応じてくれない。コミュニケーションをとろうと、おさんぽ劇場メンバー・Cちゃんが、小さな犬の人形を取り出す。(上演用ではなく、入場時のいわゆるウェルカム人形です)すると迷わず人形に手を伸ばす。初めから遣うモノだと判っていて、操作棒を持ち歩き始める。セッティングした舞台が気になるのか(?)、下手袖〜ホリ裏〜上手へと周回。そしてもう一回り。コード類などは実に上手に避けて歩く。先生曰く「下には良く注意が向くんです。上のモノにはぶつかるんですが」…ジイがコロコロ(=これまたウェルカム用の円筒おもちゃ)を取り出し床に置くと、人形で器用に転がす。ひとしきりの後、クラスに帰る。・・彼女、観劇に関しては「ももん」を半分ほど観た時点で納得したようでした。でも、上演後の記念写真にはやって来て、先生的には〈まぁ十分楽しんだ〉と云うことだったらしい。因みにその時、園長先生作のウサギ人形を持っていた。開演前に持った人形の感覚が気に入ったようです。
別の日にも、下見の子は何人か。会場内に居続けるのは困難でも、入り口を開けておけば最後まで観られた子も。その子は「ももん」前半・尺取虫が橋を渡り終えた途端「やったー!」と叫んでくれた。彼はももんちゃんより虫の方に、心を寄せていたんですね。別の子は「ももん」では終始大喜び・大爆笑。「カミナリ」になると、疲れたのか(?)横になったりしてる。が、後半・蓄音機が壊れ爺ちゃんが怒りだすと、起き上がって神妙な顔つきで集中観劇。ちゃ〜んと観ていてくれたんですね。
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2025年06月12日

ウサジイの公演日記#1143

「ここはどこ?」・・思わず「私は誰?」と続けたくなるような言葉なんですが…これを発したのは2歳さん・男の子。おさんぽ劇場は「ももん&カミナリ」で三重県・東員町の幼保を巡演中。桑名市の北西に位置する当町には、幼稚園・保育園が同居した公立施設が6園ある。子ども園的であるが、在園児は幼・保どちらかに属している。と云っても保育時間が違うだけで、園の一体感は普通にある。…で、冒頭の言葉を聞くに至った経過は・・・
舞台の仕込みを終え、手を洗いにテラスに出る。すると男の子が近づき「虫!」…目を向けると、小型のカミキリのような虫が天井に張り付いている。ジイ「あぁ、いるね」男の子「音を出すと動く」と言い、手に持った積み木(?)で柱を叩く。虫はそれほどは動かず、しかし触角の動くを見て男の子「ほらね」まぁ同意する外なく「おぉ、動いたねぇ」…そんなこともあり、開演時刻まで余裕があったので、持ち合わせのおもちゃ的人形を持って来て、2歳クラスの窓ガラス越しにチョットだけパフォーマンス。目ざとく見付けた子たちが押し寄せる。こちらが人形で「パクパク」と食べる動作をすると、向こうの子たちは我さきに手を出す。手を食べて欲しいのだ。キリがないので「お腹いっぱい」と言って終演となる。が、興味津々な子が人形劇会場までついてきた。ステージがセットされた室内が普通と違っているのを見て「ここはどこ?」となったのです。…最近覚えた言葉なのでしょうね。
そんな園の上演。「ももん」は、ハンドベルをバチで鳴らしながら始まる。通常、最初は期待と緊張で静か→ベル音が賑やかになると笑い声、てな感じ。ところがその日は、先生の「お願いします」に呼応してステージの縁まで進み、ベルを叩こうと構えただけで笑い声。あんまり楽しいので、構える動きを何度かすると、その度に会場には大笑いが巻き起こる。嬉しい反応だったが、興奮しすぎると疲れちゃう?そんな心配もなく、最後まで楽しいステージでした。
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2025年06月09日

ウサジイの公演日記#1142

【ウサジイ昔ばなし】〈146〉・・・美術スタッフW
そして工房太郎。多くの劇団と仕事をされ、全国的に知られたユニット。構造に強い吉田太郎氏&色の感覚に優れた守津綾氏のタッグが見事でした。最近、太郎氏の訃報に接したばかりですが…ジイの思い出を中心に。
当劇団との出会いは「ぶんぶく茶がま」(1999年)。演出の劇団員が海外のフェスに観劇参加した帰途、機内で座席が近く雑談したのがきっかけ。ジイが遣っていた人形=和尚は、掌が木製でモノを掴みやすく、有るのか無いのか判らないような目は、飄々とした和尚を演じるのにピッタリだった。作中で破れる掛け軸には、サントリー烏龍茶の謳い文句が描かれているのだが…試作段階では「陳義信」(=ドラゴンズ)と書かれていた。名古屋の劇団への配慮だったのか?
以降、ジイは次の3作品でお世話になった。「いえでだブヒブヒ」…舞台セットの三角柱ジャングルジムを、アルミ材で見事に組立て式に。「ジャックと豆の木」…主人公のカシラが側面優先のデザイン(魚みたいに正面顔に弱い)で、ご本人も納得のひとつ。工房HPの表紙を飾っていた。「赤ちゃんゴリラのゴリゴリ」…アースカラーで幕類・衣装などを統一、カラフルな人形たちもジイ一押しのひとつ。(この時代に本ブログを始めたため、役名=ウサジイを筆名としている)・・その後も劇団は数多くの作品でお世話になったんですが、神戸居住と離れているためチェックはネット通信が活躍。動作確認の動画を送ってもらったりしてた。そう云えば太郎氏、名古屋へ来ると大須の電気パーツ屋へ寄ることもしばしば。パソコンいじりも好きだったんです。
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2025年06月08日

ウサジイの公演日記#1141

【ウサジイ昔ばなし】〈145〉・・・美術スタッフV
おばらしげる(小原滋)氏。きっかけは不明だが、初回「石の馬」の仕込み時に人形製作の助っ人として現れた。大きな石の馬をウレタンで切り出し、ラテックス(液状ゴム素材)を塗って仕上げていた。初めて見る材料に驚いたが、話を聞けばTV等にも関わる制作工房の一員であったらしい。(旧い方はご存知かと思うが、8時だよ全員集合の「ジャンボマックス」製作にも関わっていた)…元々は教職に就いていたが、関東の人形劇団に入り、それから工房に移ったようです。(この辺り、順序等に勘違いあるやもしれず)で…そのあと劇団と専属契約を結び名古屋へやって来た。という訳で正式には劇団員ではなかったが、ほぼ劇団員いや古参劇団員のような存在でした。人形工房の主として数多くの作品に関わり、新しい工作機械の導入・素材の紹介等々…現在の人形・道具製作システムの基盤を作ったように思う。何年か後、独立して人形工房「アトリエ羅道」を設立、中部地域の劇団を中心に人形を提供。とともに、身体にハンディーあるメンバーの人形劇団に協力、ハンディーに見合った操作方法の人形を開発している。
そんな氏も人形劇人。デザインだけでなく操作・表現を第一義に考えていた。第二期「悟空誕生」(1989年)花果山のサル群の中で、ジイはサブリーダー役。サル人形の持ち手の位置・角度などについて注文を出すと、嬉しそうに応えてくれ…「遣い手のレベルには合わせるんだ」チョット嬉しい一言だった。第二期「西遊記」ジイは沙悟浄。当時の三蔵法師ご一行の人形が、遣い手と似ているとの意見も聞かれたが…「役者の出す声からイメージすると、同じような骨格になりやすい」などと話してくれた。
それから思い出すのは、四川そば!劇団の台所で、賄い的に振舞ってくれた。中華鍋でザーサイ等を炒めて具を作るのだが、材料の入手先は限られている。ジイが旅公演で横浜にいた時、携帯電話のない時代にどういう経路か不明だが、氏から連絡が入った。「中華街の@@の方に***って云う店があるから、そこでザーサイを買ってこい」それもかなりの量。とにかく買って帰ったことだけは覚えている。
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2025年06月07日

ウサジイの公演日記#1140

【ウサジイ昔ばなし】〈144〉・・・美術スタッフU
何作品にもわたり、お世話になった方も…。そのひとりが(恐らく)30年近く付き合いのあった、岡田紀元氏。ジイ入団前からだから、きっかけは判らない。デザインの仕事をされており、日赤病院に関係する人形劇団「いずみ座」の一員だった。同じ地域の人形劇仲間で、年齢も当時の当劇団若手(ジイの先輩)と同じ位だったので、自然と交流が始まったのだろう。(昭和28年生まれの、自称ニッパチトリオ=岡田氏・当劇団のM氏・人形劇団PのK氏)スリムな体形で、ベルボトムのジーンズが印象的。飯田カーニバルでは、歴代のバッヂを付けたチューリップハットを被り闊歩していた。
ジイが親しく出逢ったのは「雪をんな」。夕方になると、一升瓶を手に大根山稽古場へやって来て、和紙人形のカシラの中身を削っていた。カッターナイフの刃だけを使って、凹凸を無くす作業を根気強く…傍らの湯呑み(=日本酒)にも手を伸ばしながら。その酒がまた超こだわりで、ジイもご相伴に預かりました…ウンチクを聴きながら。そういえば、当時の幼児作品リーフレットは氏のデザインでした。優しい雰囲気のレタリング、劇団員の似顔絵も記憶に残っている。
数多くの幼児作品の他、初回「石の馬」の人形美術を担当。演出/関矢氏の「なんか、ぼんやりとした顔つきが良いんだけどね…」を受けて、彫の浅い、目鼻を筆で描いた博多人形のような(?)感じのカシラを創ってくださった。葛藤しながら成長してゆく主人公=ロロ。色んな顔つきを想像させるためには、丁度良い風合いだったんじゃないだろうか。大変お世話になった岡田氏、人形美術から手を引いた後は整体師のような仕事をしていた。
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2025年06月01日

ウサジイの公演日記#1139

【ウサジイ昔ばなし】〈143〉・・・美術スタッフT
人形劇には人形が(基本的には)必須。集団創造の場合は、メンバーでデザインしての製作もある。スタッフを立てる場合も、劇団内には人材が多い。そもそも人形劇に係る者は、モノ作りの好きな者が多い。けれど新しい色合いを求めて、団外にスタッフを依頼することもある。そんな中、一度(or2回)きりの出会いだった方も何人か。印象に残るのは…
ジイが入団した年、最初の「西遊記」が制作された。(記憶が確かならば)前作「悟空誕生」に引続き、増原彬陽氏の美術。入団直後とて氏の詳細は知りえていないが、デザイナーであり演出家であったようだ。作品創造の中で演出/関矢氏の思想に共感し、それを地域での演劇講座に取り入れた。その中から生まれた劇団は、今も元気に活動している。なお、荒々しい中にも愛嬌あるデザインは、当時の荒削り(?)な若者メンバーにマッチしていた…と思う。
ジイも演じた「ガリヴァー」では、グラフィックデザイナーの杉田圭司氏。相当に高名な方だったようで、同席しての作業は少なかったが…「フウイヌム=馬の国」の馬作りでのこと。径5oのアルミ線で全長2m程の馬を何頭も作った。デザイン画をベニヤ板に写し、それに沿ってペンチで曲げてゆくのだが、なかなか思うに任せない。たまらず「まぁ、チョットぐらい良いか」と呟いた瞬間、向こうから鋭い視線が!いつもは「あぁ、良いですよ〜」と鷹揚な氏の目が厳しかった。一同沈黙の後、きっちりと曲がるよう苦慮したのでした。
その後しばらくして、水谷泰三氏が「世界にパーレただひとり」。人形劇団「ランダム」を主宰し、丁寧な美術に定評があった。ハンチング帽+顎鬚の大きな体。大根山の稽古場にやって来て、工房などでコツコツと作業をしていた。印象に残るのは、大きな月の書割り。まるで写真のような精密な描写で、〈こういうテイストもあるんだ〉と認識を新たにした。因みに「ウニマ年鑑」(日本ウニマ発行)の表紙・ロゴは、氏の手による。
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2025年05月30日

ウサジイの公演日記#1138

【ウサジイ昔ばなし】〈142〉・・・シゲさん
木村繁氏。当劇団にとどまらず、広く演劇界で活躍された方です。その辺りに関しては知りえないことも多く、ここでは主に劇団員としての活躍に限り話すとします。ジイが初めて出会ったのは、入団まもない頃、何かの稽古を南区役所講堂でしていた時のこと。丹下進氏が連れて来たのか?片隅に座り、こちらを眺めている方がいた。上着はカーキ色・厚手のジャケット、髪はかなり長くボサボサ、いかにも演劇界のヒトった感じでした。(実を言うと、原人的な風貌だと思った)その後「雪をんな」の脚本家として会い…事情は不明だが、入団することになる。その頃、本人からか?入団までの略歴を聞いた。長野県飯山市生まれ・日本福祉大に入るも直ぐに退学・上京して演劇の勉強・前進座に籍を置いたことも・鶴舞座創設に際し協力を請われ名古屋へ…記憶はあいまいですが、こんな感じ。丹下氏の実家が鶴舞にあったので知り合ったのかな?
入団後は脚本・演出の仕事を請け負った。伝統芸能にも造詣が深く、初期は尾張漫才や花祭りの踊りを取り入れたモノを創作。当時計画していた土日稼働班や小学校向け五人班にピッタリだった。大人向け作品や、客員・譚志遠氏演じる作品も思い出される。ジイとは「せんたくねずみ」。幼児作品だったためか「俺よぅ、チッチャイ子のことは良く判らねぇんだ。芝居は創るから、変だと思ったら言ってくれよな」…創造に対して厳しい反面、人としては優しい方だった。(一部からは「極度の恐がり」だとも言われる)
劇団にいる頃から外部との協同も多く…「まちんなか演劇祭」では何作か上演しているが、ジイは「セメン樽の中の手紙」に出演。人形無しの冷や汗ステージでした。その他、パペットアーク校長(=人形劇界が作った人形劇養成施設)・愛知人形劇センター理事長などでも活躍。能力と人柄あってのことだと思う。個人の力量で活動できたのに、65歳まで在籍し定年退団。律儀な性格ゆえなのか?この劇団が好きだったのか?…退団後、一層活躍されていたが、70代半ばで逝去された。
posted by むすび座メンバー at 18:23| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする