2025年06月07日

ウサジイの公演日記#1140

【ウサジイ昔ばなし】〈144〉・・・美術スタッフU
何作品にもわたり、お世話になった方も…。そのひとりが(恐らく)30年近く付き合いのあった、岡田紀元氏。ジイ入団前からだから、きっかけは判らない。デザインの仕事をされており、日赤病院に関係する人形劇団「いずみ座」の一員だった。同じ地域の人形劇仲間で、年齢も当時の当劇団若手(ジイの先輩)と同じ位だったので、自然と交流が始まったのだろう。(昭和28年生まれの、自称ニッパチトリオ=岡田氏・当劇団のM氏・人形劇団PのK氏)スリムな体形で、ベルボトムのジーンズが印象的。飯田カーニバルでは、歴代のバッヂを付けたチューリップハットを被り闊歩していた。
ジイが親しく出逢ったのは「雪をんな」。夕方になると、一升瓶を手に大根山稽古場へやって来て、和紙人形のカシラの中身を削っていた。カッターナイフの刃だけを使って、凹凸を無くす作業を根気強く…傍らの湯呑み(=日本酒)にも手を伸ばしながら。その酒がまた超こだわりで、ジイもご相伴に預かりました…ウンチクを聴きながら。そういえば、当時の幼児作品リーフレットは氏のデザインでした。優しい雰囲気のレタリング、劇団員の似顔絵も記憶に残っている。
数多くの幼児作品の他、初回「石の馬」の人形美術を担当。演出/関矢氏の「なんか、ぼんやりとした顔つきが良いんだけどね…」を受けて、彫の浅い、目鼻を筆で描いた博多人形のような(?)感じのカシラを創ってくださった。葛藤しながら成長してゆく主人公=ロロ。色んな顔つきを想像させるためには、丁度良い風合いだったんじゃないだろうか。大変お世話になった岡田氏、人形美術から手を引いた後は整体師のような仕事をしていた。
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2025年06月01日

ウサジイの公演日記#1139

【ウサジイ昔ばなし】〈143〉・・・美術スタッフT
人形劇には人形が(基本的には)必須。集団創造の場合は、メンバーでデザインしての製作もある。スタッフを立てる場合も、劇団内には人材が多い。そもそも人形劇に係る者は、モノ作りの好きな者が多い。けれど新しい色合いを求めて、団外にスタッフを依頼することもある。そんな中、一度(or2回)きりの出会いだった方も何人か。印象に残るのは…
ジイが入団した年、最初の「西遊記」が制作された。(記憶が確かならば)前作「悟空誕生」に引続き、増原彬陽氏の美術。入団直後とて氏の詳細は知りえていないが、デザイナーであり演出家であったようだ。作品創造の中で演出/関矢氏の思想に共感し、それを地域での演劇講座に取り入れた。その中から生まれた劇団は、今も元気に活動している。なお、荒々しい中にも愛嬌あるデザインは、当時の荒削り(?)な若者メンバーにマッチしていた…と思う。
ジイも演じた「ガリヴァー」では、グラフィックデザイナーの杉田圭司氏。相当に高名な方だったようで、同席しての作業は少なかったが…「フウイヌム=馬の国」の馬作りでのこと。径5oのアルミ線で全長2m程の馬を何頭も作った。デザイン画をベニヤ板に写し、それに沿ってペンチで曲げてゆくのだが、なかなか思うに任せない。たまらず「まぁ、チョットぐらい良いか」と呟いた瞬間、向こうから鋭い視線が!いつもは「あぁ、良いですよ〜」と鷹揚な氏の目が厳しかった。一同沈黙の後、きっちりと曲がるよう苦慮したのでした。
その後しばらくして、水谷泰三氏が「世界にパーレただひとり」。人形劇団「ランダム」を主宰し、丁寧な美術に定評があった。ハンチング帽+顎鬚の大きな体。大根山の稽古場にやって来て、工房などでコツコツと作業をしていた。印象に残るのは、大きな月の書割り。まるで写真のような精密な描写で、〈こういうテイストもあるんだ〉と認識を新たにした。因みに「ウニマ年鑑」(日本ウニマ発行)の表紙・ロゴは、氏の手による。
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2025年05月30日

ウサジイの公演日記#1138

【ウサジイ昔ばなし】〈142〉・・・シゲさん
木村繁氏。当劇団にとどまらず、広く演劇界で活躍された方です。その辺りに関しては知りえないことも多く、ここでは主に劇団員としての活躍に限り話すとします。ジイが初めて出会ったのは、入団まもない頃、何かの稽古を南区役所講堂でしていた時のこと。丹下進氏が連れて来たのか?片隅に座り、こちらを眺めている方がいた。上着はカーキ色・厚手のジャケット、髪はかなり長くボサボサ、いかにも演劇界のヒトった感じでした。(実を言うと、原人的な風貌だと思った)その後「雪をんな」の脚本家として会い…事情は不明だが、入団することになる。その頃、本人からか?入団までの略歴を聞いた。長野県飯山市生まれ・日本福祉大に入るも直ぐに退学・上京して演劇の勉強・前進座に籍を置いたことも・鶴舞座創設に際し協力を請われ名古屋へ…記憶はあいまいですが、こんな感じ。丹下氏の実家が鶴舞にあったので知り合ったのかな?
入団後は脚本・演出の仕事を請け負った。伝統芸能にも造詣が深く、初期は尾張漫才や花祭りの踊りを取り入れたモノを創作。当時計画していた土日稼働班や小学校向け五人班にピッタリだった。大人向け作品や、客員・譚志遠氏演じる作品も思い出される。ジイとは「せんたくねずみ」。幼児作品だったためか「俺よぅ、チッチャイ子のことは良く判らねぇんだ。芝居は創るから、変だと思ったら言ってくれよな」…創造に対して厳しい反面、人としては優しい方だった。(一部からは「極度の恐がり」だとも言われる)
劇団にいる頃から外部との協同も多く…「まちんなか演劇祭」では何作か上演しているが、ジイは「セメン樽の中の手紙」に出演。人形無しの冷や汗ステージでした。その他、パペットアーク校長(=人形劇界が作った人形劇養成施設)・愛知人形劇センター理事長などでも活躍。能力と人柄あってのことだと思う。個人の力量で活動できたのに、65歳まで在籍し定年退団。律儀な性格ゆえなのか?この劇団が好きだったのか?…退団後、一層活躍されていたが、70代半ばで逝去された。
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2025年05月26日

ぶぶふぉと・・・東かがわ+

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「あれっ?もう始まってるよ」
「いや、あの…今日は出番なくて…」

※ とらまるパペットランド
人形劇場とらまる座の前にて
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2025年05月25日

ウサジイの公演日記#1137

香川県・東部にある人形劇場とらまる座にて、「ともだちや」を5日5st公演。最初の3日間は、主に地元の幼保・小学校低学年が観劇にやって来る。土日は一般の親子。劇場は、人形劇ミュージアム等もある「とらまるパペットランド」にあり、そこそこ一日過ごせる施設なんです。・・・1985年に当時の大内町青年組織が「レクリエーションと人形劇のカーニバル」を開催。その後、拠点となるとらまる座が開設される。2000年代に入り、養成施設を構想していた人形劇界が主導する財団法人が管理運営を任され、博物館などを併設した複合施設となる。諸事情により人形劇学校=パペットアークは9期を以て閉校。その後は、卒業生などで構成される法人が管理運営している。・・・という訳で、今でも全国の人形劇団が上演にうかがっているのです。(なお、初代の学校長は当劇団のS氏でした…その件は、後日)
ジイは初期に「ジャックと豆の木」や「赤ちゃんゴリラのゴリゴリ」などで4回ほどうかがっているが、近年はさっぱり。おさんぽ劇場は初めてだから、15年ぶりだろうか?だというのに、パペットランド内はもちろん、市街地の様子も覚えているもんですねぇ。3日目までは集団観劇…毎年のようにやって来ている子たちが多く、くつろいで観てくれました。ホール公演は普段と勝手が違うんですが、子ども達の反応に助けられたかな。午前だけの公演で、午後はフリーなので…2日目=市内東部・引田の商家・讃州井筒屋敷を見学。3日目=足ををのばして屋島まで、プチ観光の日々。土日の一般公演は、集客が読めない…し、そもそも集客が難しい。それでも、両日とも35名ほど入ってくれました。原作の力かな?
公演前には博物館も覗いたり…劇人形展示だけでなく、様々な形で人形劇遊び・人形作りができる環境になっている。そこで出会った女の子。集団観劇でお母さんと観てくれたとのこと。スタッフの話では、家が近く常連だという。一人で遊んでいたのでジイが仕掛けると、人形を手に対抗してきた。お母さん曰く「やや難聴で落ち着かず、昨日は初めてホール観劇できた。この施設は環境が良いので、連れてきやすい」と。博物館内の小劇場では、スタッフのミニパフォーマンスもある。一緒に観に行くと、その子は手遣い人形を携えていて、舞台の表現に対して人形で反応していた。人形劇が日常の一部になっているとはスゴイ!
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2025年05月23日

ぶぶふぉと・・・東かがわ

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「そろそろ殿堂入りする?」
「いや、まだまだ現役続行!」

※ とらまるパペットランド
人形劇ミュージアム前にて
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2025年05月22日

ウサジイの公演日記#1136

【ウサジイ昔ばなし】〈141〉・・・こんな仕込みも…A
1980年代後半「モンキーキング」:当時の小学校公演班がカナダ・チルドレンフェスティバルで上演するため、「悟空誕生」+「西遊記」の短縮ヴァージョンを仕込んだ。ほとんどの道具などを新たに作り直す。そのため、同時期に幼児作品「さるかにばなし」他1本を仕込む予定のジイ達も手伝いに入る。おかげでレパの方は、2週間・超特急で仕込むことになるのだが…。大変だったのは、むしろ手伝いの方でした。仕込み終盤、通じない台詞をカバーするために、ステージ上に広げる字幕を製作。ホール対応のため、文字ひとつが15cm〼ほど・長さ5〜6m。布に絵具で描くと云うものでした。ニジミ防止で礬砂(どうさ)を塗ってあるのだが、紙に描くようにスラスラとはゆかない。それが何十枚もある。最後の一週間は、ジイ達数名は劇団工房に泊まり込み。朝方、やって来た役者に出来た分を渡し、そのままそこで寝る。昼過ぎに起きて、作業再開てな感じでした。そうそうある時、純正カフェインなるモノが出現。それを飲むと確かに眠くならないのだが、覚醒したまま手先だけが動かなくなり、役には立たなかった。‥‥そんな汗と涙の結晶、結局現地では使われなかったとか。
1990年代前半「名古屋心中」:劇団創立25周年(だっけ?)記念作品。「西遊記」班のうち、ジイ含む4名・幼児作品3人班×1・その他数名(新人2名含む)で、8〜9月の長丁場で創った。初めての文楽人形操作にも苦労したが、そんな人形を20数体作るのが大変だった。・・・なんて書き始めたが、調べてみたら「#960〈78〉」に出ていた。そちらをご覧ください。
ので、テーマから外れるが…ジイが属している「おさんぽ劇場」の最初の作品(2011年)が「ぶんぶく茶がま」「おばあさんとマリーちゃん」になった理由は…仕込み時期が大型作品「ピノキオ」と丸被り。劇団内には、スタッフも手伝い人材も全く期待できない。メンバー二人だけで創るためには、人形・道具などが残っている作品のリメイクが良かろう。どちらも3人編成の作品だったので、それなりに工夫は必要でした。この時に得た2人班の秘訣は「使うモノは役者の近くに置く」(=袖まで移動しない)そして演じる上でのコンセプトは「舞台芸術と云うよりは芸能」これらは、形は違ってもずっと継続しているような気がしています。
posted by むすび座メンバー at 20:17| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年05月21日

ウサジイの公演日記#1135

【ウサジイ昔ばなし】〈140〉・・・こんな仕込みも…@
(ひょっとしたら、以前と重複の記載もあるかもですが…)そして(懐かしさはあるものの、決して以下の状況をヨシとしてるわけでもなく…)ただ単に、こんなこともありましたとさ…てな感じで話します。通常のレパートリー作品以外の作品創造時の話です。
1980年代中盤「ガリヴァー」:演者は幼児作品3人班×2と、公演班以外からも2人ほどを合わせた大所帯。大型の高学年向き作品で、作品創造にもそれなりに期間が必要だった。が、当時の幼保作品は一年を通して、平日は午前&午後の二回公演が普通。それだけ需要があったので、日程を空けて仕込むような考えはなかったようだ。もちろん最後は、専念できる期間が確保されてたが…。で、どうなるかと云えば…午後公演を終えて劇団へ帰る。すると演出=関矢氏が待ち構えていて、昼間に練っていた構想に基づき稽古が始まる。多分21or22時頃まで。はっきりした記憶ではないが、そんな期間が何度かあって本仕込みに入ったように思う。ジイは入ったばかりで比較するモノもなく、疑問すらなかった。全員が20歳台だったから体力もあったのかな?あ、それから小学校班も公演が忙しく、道具など製作の手伝いをする体制も作れず…どう考えても初演に人形が間に合わない!基本構造はできていても、表面処理まで手が回らないモノがある!しかし、演出=関矢氏「役者は『人形工房の者達』と設定しよう。だから作りかけの人形があっても構わない」いや〜、ビックリ。が、観る者にとって、想像する余地残るフォルムとなりました。
同じく1980年代中盤「雪をんな」:初演は(今は無き)名演会館プロデュースと云う形で、劇団から3名+人形劇団パンの1名がメンバー。お芝居は、三味線語りに合わせて和紙人形が演じるという形。(狂言回しの人形には、面白おかしいやり取りがあったが…)2劇団合同だったし、何より三味線のY氏の都合があって、稽古は早くて19時〜・場所は名演会館。翌日も公演のある日も多く、さすがにその日の内には稽古終了…なのだが…Y氏「チョットいきますか」と御猪口を持ち上げる格好。伝統芸能の世界はそう云うものなのか?彼独自の習性なのか?お断りするわけにもゆかず、帰宅は2〜3時になったり。これまた若き体力で乗り切る日々でした。幸い和紙人形+道具は、美術=O氏がこだわりの製作で作り上げてくれた。・・・脚本=S氏・演出=T氏を含め、スタッフ等は鬼籍に入られた方が多く、時の流れを感じるばかり。
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2025年05月16日

ウサジイの公演日記#1134

【ウサジイ昔ばなし】〈139〉・・・Gボン〜シンナー
チョット面倒くさい人間であるジイは、新人がボンド作業をしていると「ここ!この容器の注意書きを読みなさい。正しく接着しないと剥がれやすいから」言われなくてもそのうち判るのだろうが、言わずにはいられないジイ。Gボンドは速乾とは云うものの、そこそこ乾きかけないと溶剤の逃げ道がなくなり、完璧な接着にはならない。使用法順守は他の接着剤も同じ。そんな訳で半乾きorほぼ乾きになってから貼るのだが、これも湿度次第で時間が変わる。1990年代「おいしい眠り方」…青年向けにチャレンジした作品でのこと。著名人を模った巨大な顔だけの人形。たたみ2/3畳ほどの大きな顔に、布を貼る作業があった。ベテラン女性陣が担当したが、大きすぎるので場所を取る。そこで「おこもり」=大根山の旧稽古場近くに借りていた4軒長屋のアパートの一室での作業となる。あいにくの雨天で乾きにくい‥‥と云うか、大気中の湿気を吸い込んで、塗り終えたボンドが白っぽく泡立ってくる。そこはベテラン陣、ドライヤーを操って張り込み作業を完遂。ジイには無理だったなぁ。
今でも多々あるが、このボンド、衣服に付いたら簡単には取れない。放っておいて後から丁寧に摘まむのが一番。そうとは知らずジイ入団した年、作業中にトレーナーに付け、しかもすぐさま擦って台無しにしてしまった。悲しいほど薄給の時代、入団後初めて意を決して購入したトレーナーだった。渡り鳥が並び飛ぶようなデザイン。まぁ、えてしてこんなもんなんでしょう。もちろん着続けましたよ、公演先へも。他には無いんだから。
…話ついでにシンナーの思い出。1990年代後半「サンショオウォーズ」舞台のバックに、無数のサンショオウオ等を配した巨大な幕を飾ることになる。美術スタッフ/小原氏に、その作業を任された。3名ほどのチームでジイがリーダー。稽古場に広げては稽古の妨げ。当時借りていた「追風」(=プレハブ倉庫を地名で呼んでいた)に幕を吊り、指令通り油性ペイントで色付する。まずコンプレッサーで逆巻く波を描き、その後スタンプでサンショオウオを押してゆく。油性ペイントを溶剤のシンナーで緩くし吹き付けてゆくのだが、本来倉庫である空間の換気は良いわけではない。2〜3分吹き付けると「退却〜!」と叫び、戸外へ逃れしばらく待つ。倉庫内の視界が復活すると作業再開。夏場であり、倉庫の床にはシンナーにやられた夏虫が無数に転がっていた。今では考えられない、危険な方法でした。
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2025年05月15日

ウサジイの公演日記#1133

【ウサジイ昔ばなし】〈138〉・・・Gボン
人形や道具を作る際に、接着剤は必須。主に使うのは…木工や紙類に使う酢酸ビニル系の「白ボン」・石油製品をはじめ万能なゴム系の「Gボン」・空白部分を埋めながら固めてくれるエポキシ系の「二液」〜「」内は当劇団での通称。ボンドは「コニシ」の商品名だが、一般名詞になりかかっている気がする。その昔のセメダインの様に。(あ!GボンドはコニシのボンドG10でした)他に瞬間接着剤を使用することもあるし、ゴム系でもスチロール可のモノをはじめ種類は多い。・・・実は本日、「ニルス」に登場する小人の頭にガーゼを貼る作業をした。貼りながらGボンドの旧い話題が出た。そんな入口からアレコレ思い出した。
劇団では大量に使うため、通常3sの大容量缶を購入する。そこから小分けして使う。今はジャム等の空き瓶に移し、プラスティック製のヘラで塗っている。パレットナイフだったり、竹を削った特製品を使う者もいる。が、ジイな入団した頃は、もう少し大きめのインスタントコーヒーの空き瓶が多かった。塗るのは、ボンドにオマケで付いてくる刷毛。竹の柄+黒い毛足の巨大歯ブラシ状のモノ。大きな面に塗るには便利だが、細かい作業には向いていない。刷毛先をノコで切って小さくしたり、最終的には自分の指で塗っていた。溶剤としてシンナー系が使われているのだから体に良いわけない。でも…「慣れりゃ指に付かなくなる。それがプロの証明だ」なんて意味不明なコトを言いながら作業していた。
購入先も変遷。最初は地元・鳴海商店街の塗料屋だったと記憶している。ペンキとは溶剤が同じだからだろうか?(因みに白ボンドも、地元のインテリアも扱う雑貨屋でした)ホームセンターができてからは便利になったが、購入時に署名が必要な時期があった。大容量だと使われているシンナーも大量で、どうやら悪用=シンナー遊び対策だったらしい。 (…つづく)
posted by むすび座メンバー at 07:52| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする