2025年02月06日

ウサジイの公演日記#1115

【ウサジイ昔ばなし】〈128〉・・・ジイの始まり
入団前後のことは話した。ので、もう少し遡って、この役者が出来あがるソモソモを話します。おやこ・子ども劇場さんの交流会等で「何故、劇団に入ったんですか?」と聞かれる。これには「そもそも教師になるべく大学に入った。教壇で表現できるよう人形劇サークルに入った。のに、様々な理由で授業をサボり、卒業できなくなった。で、劇団に流れ着いた」と答える。これはこれで、間違いない。が、人生にはかなり込み入った事情が絡み合っている。
上記人形劇サークルの件は、先に勧誘されていたような気もする。小中学校通して演劇は好きだったので、スルリと入ってしまったのか? 卒業できなくなったわけは、第一には生来の怠け癖。「ま、良いか」の連続が不登校を生み出したのでしょう。あとは、残り火のような学生運動的なモノ…学寮に入り、そこの自治会活動の担い手として、様々飛び回っていた。(数年前にメールで写真を頂いた。学芸自治会(教育学部)の先輩と、国会議員交渉へ行った時のモノ)それから勿論、サークルでの活動。今はなき人形劇団つくしは、多い時は年間50を超えるステージをこなしていた。クリスマス時期には、二手に分かれて土日公演をしていたかと…。・・・なわけで、3年目を迎える頃には卒業が怪しくなり…5年半の間ウダウダとキャンパスに居ったのです。
そんなジイに様々な刺激がありました。(どれも3年生以降だと思いますが)*津子ども劇場さんがプークさんの「バヤヤ王子」を取り組むとて、人形作り講習会を企画。そこに行き、星野毅さんの教えを頂きました。*同じくプークさんの「ゆき」を実行委員会形式で上演する際に、実働部隊に参加。(あなたは学生だから赤字でも関係なし、と言われて)なお現地制作者は松本久さんでした。*映画「同胞」を大学祭で上映。地域に文化を届けるオルガナイザーに魅力を感じた。…等々。サークル員としては3年生で第4回三重県人形劇フェスの実行委員長。鈴鹿や松阪の短大サークルに参加要請に行きました。(三重のフェスを大きくし、愛知に対抗したいという野望アリ)4年生は本来引退するのだが、友人I君と小班を作って上演を続けた。サークル本体から10万円を借りて舞台を作り、公演で稼いで返した。
ナンテやってるうちに二進も三進も行かなくなり、半分ほどプロ志向が芽生える。取り合えず実情を知ろうと、まずプークに行く。対応してくれたのは、最近亡くなられたKoさん。上階の団員サロンで話すと「ん〜、君はプーク向きではないかもしれないねぇ」 次に行ったのは京芸。大学の後輩が入団したばかりで、忘年会にお邪魔した。(それが縁で、劇場ツアーの搬入バイトをさせてもらった) むすび座は以前から知り合いではあったが、事務所・稽古場に行くのは初めて。ところがいきなり「飲も!今日は泊まってけ!」と3人の先輩に拉致され、その夜は泥酔状態。そんな流れで、ここに流れ着いたという訳です。人生って詰まるところ「偶然の産物」だったりする。
なお、入団時の志望は「制作者」志望。サークル仲間に比して役者力は足りないと思っていたし、地域に切り込む活動に魅力を感じていた。が、当時は先ずは役者、その後ゆっくり考えましょう的な環境で…そうこうするうち、ズ〜ッと舞台に立っている。これまた「たまたま」なのですねぇ。
posted by むすび座メンバー at 17:51| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする