2023年04月26日

ウサジイの公演日記#987

【ウサジイ昔ばなし】〈98〉・・・この方も恩師
多分、まだ書いてないと思うんですが・・・1980年頃・入団直前に、別の劇団の舞台を踏んだことがある。(…な〜んて云うと、大げさなんですが)・・・縁あって、京都の老舗人形劇団のツアーに帯同した。と言っても荷物運び=搬出入の助っ人役として。ところがツアーの途中でメンバーの一人が急病、残りのメンバーで対応するが、どうしても人手の足りない場面がある。そこで白羽の矢が立ったのがジイ。川を転げるように移動する岩の役と、大団円で輪になって踊るような役、後は舞台袖での整理など…だったはず。急遽差し込まれた役割ゆえ、上下を手ぶらで移動せねばならないこともある。ホール公演なので楽屋通路やホリ幕裏を移動したが、そういう通路がなく舞台奥を横切らざるを得ない会場があった。先輩諸氏曰く「芝居が騒がしい所で、スーッと歩いたらええわ」…が、経験のないジイは超緊張。何気なくと思えば思うほどガチガチになり、不自然極まりない歩きの目立ったこと!そんな中、宿で吞むこともあり、取り分けF氏(Oっちゃん)からは多大な薫陶を受けた。今となっては具体的な言葉を覚えていないが、演技論・文化論・人生論…入団を決めていた者には沁み入ることばかりであった。
それから10年ほど経った頃、劇団に同じく人形劇団KのT氏(Мさん)を迎えて、学習会が行われた。演技についての座学であったはず。演壇には、氏の要望で人形を幾つか用意した。講座が始まる前から、嬉しそうに人形を操るT氏。始まってからも「この人形はこうすると良いかな?いや、この方がおもろいか」手の中の人形が愛おしくてたまらないと云う風情。一つだけ明瞭に覚えているのは、劇団員「自分のセリフがない時は、どうしていればいいんでしょうか?」T氏「そりゃ、相手の話を聞くしかないやろな」・・・自分がそうするんだから、人形にもそうしてもらえ…ってことだったんでしょう。
この頃、中国地方のツアー帰りに、人形劇団Kの稽古場に寄る機会があった。同年代の方と話している所へ、N氏(Kさん)が通りかかり「そのオデコ、どないしたんや?」実は前日の宿で泥酔し、よろけて壁にぶつけていた。そのことを話すと「役者は顔を傷つけてはいかん!」怒るように諭してくれた。同じ舞台人として見てくれてるんだなぁ…恐縮しながら、嬉しくもあった。(氏の経歴を調べたところ1990年に独立してるから、その直前という訳か)
と、書いてみると…皆さん役者。タイプは全く違うが、人となりが演技に反映していた。
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2023年04月23日

ウサジイの公演日記#986

【ウサジイ昔ばなし】〈97〉・・・役作り?
役作りと云うと大層なコトに思われるが、器用ではないジイにとっては実に地味な作業だったりする。2000年代中盤「赤ちゃんゴリラのゴリゴリ」団内オリジナル作品に登場するウサギの爺さん、これを是非演じたい!と思い、取り組むことになった。…そう!この「公演日記」に冠している「ウサジイ」は、この時の役名なんです。その頃にブログを開設した劇団HP、それ故そんなタイトルになったんです。
で、演じたいとは思ったものの子育て経験のないジイ。公演先の園に行くたびに、乳児クラスを訪問することにした。留意点は「そこに居るだけ」…これは劇団風の子さんが「2+3」を創った時の振り返った書籍から学んだ。先生の許可を得て、普通に「こんにちは」と挨拶して入室。やはり初めはギコチナイ。が、徐々に慣れて同じ空間に馴染むようになってゆく。数か月後、ある園の先生「あの子は男の人、ダメなんです。ビックリしました」その子はしばらく、ジイの膝の上でくつろいでいた。(これ、少々自慢)「男・眼鏡・ヒゲ」とデメリットを重ね持つジイでも、こちらの準備さえ間違わねば大丈夫と思った。かくしてその後、「ゴリゴリ」の仕込みに突入した。役に立ったか?不明だが…。
1980年代末「悟空誕生」で、ジイは仙人役。不老不死の極意を問う悟空に、仙人は「命を大切に…笑顔を忘れぬこと」と諭す。飛び回る虫を潰そうとする悟空に「その蚊にも命がある」と。ならばと、当時のジイはとにかく命を大切にと心がけた。蚊・蝿・ゴキブリ、もちろん追い払いはするが殺生はしない。交通事故にあった小動物には手を合わせる、等々。単なる気休めかもしれないが、役の存在に影響ありと信じてやってました。(なお、その後は殺生しまくりです)
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2023年04月22日

ウサジイの公演日記#985

【ウサジイ昔ばなし】〈96〉・・・宿題?
空き日があると、他班の公演を観に行くことがある。(コロナ故、最近は難しかったが…)そんな時、観られる側が観る側の作品のセリフをパクることがある、歓迎の意を表して…。上手くハマれば、劇団員にだけ大爆笑が巻き起こる。ので、そのアドリブを練るためにかなりの労力を割くことになったりする。(自己満足に過ぎませんが…)
このような応酬が、劇団間で行われた例がある。1980年代後半「カダオの子」宮崎県の劇場公演時、小学校公演ツアーの劇団K九州さんと同宿になった。互いの空き時間に差があり、ナント・ラッキー、公演を観あえる!まずはジイたちの芝居を観てもらう。で翌日、小学校にKさんを観に行くと…上演中、火の玉オヤジなる人物(多分、日照りの元凶)が仁王立ち、両手を広げて「お〜、カダオよ〜!」と叫ぶではないか!(〜実は両作品、日照り的なコトがテーマになっていて、重なる部分もある〜) しかし、こちらの作品には出ても彼の作品には出るはずもない「カダオ」なる言葉を叫んだ役者には驚いた。ジイは脱帽…しかし、やり返すチャンスもない。チョットの口惜しさと、大いなる尊敬が残った。
それから20年ほど後、鹿児島県でのこと。例の火の玉オヤジ=K氏のチームと同じ地域を廻る機会があった。今回は、ジイたちが先に観る機会を得る。充分に楽しませてもらったが、セリフのゲットも忘れない。悪役と戦う時に仲間に言う「勇気百万倍!」というセリフ。数日後、K氏等が観にいらっしゃる。作品は「さるかにばなし」 途中、臼が加勢すると申し出ると、牛の糞役のジイ「お〜臼どん。お前さんが来てくれりゃ『勇気百万倍』じゃ!」・・・長い間残し続けた宿題がかたついたような気分でした。
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2023年04月20日

ウサジイの公演日記#984

【ウサジイ昔ばなし】〈95〉・・・ほぼ人形なしで…
「名古屋まちんなか演劇祭」劇団員であった木村繁氏が関わっていた企画です。名古屋市中心部にある古い建造物を会場にして開催。木村演出の作品に、劇団員も何度か出演した。1998年・第一回「オンディーヌ」には小学校向け4人班のメンバーが出演、ジイは照明オペとして関わった。会場は撞木館、建物の一部と庭園をステージにしたと記憶している。そのため機材は、照明スタッフ・M氏の指示で屋外にも設置する。ところが仕込み当日は小雨、コードの継ぎ目=コネクタにはビニール袋をかぶせて養生した。肝心のスポットライトと云えば「この位の雨なら熱で蒸発するから大丈夫!」さすがは百戦錬磨の照明家であった。
出演したのは、1999年・第二回「セメント樽の中の手紙」会場=旧豊田佐助邸。(トヨタ自動車創業者の弟にして、豊田紡織社長の旧宅)その一室・10畳余だったかなぁ(?)をステージにし、隣の同規模の部屋が客席。(ひょっとしたら横の部屋も客席だったかも…)ので、客が超近い!ほぼ同じ空間に居て、隣から観られているような感じ。ストーリーはほとんど覚えていないが、人形操演ではなく、仮面を片手に体で演じていた。役どころは日雇い労働者(?)で、酔っぱらって独り言を言ってる場面の記憶がある。…それよりも記憶に確かなのは、開演前のコト。舞台袖(隣の部屋)で待機中、あまりの緊張感に喉が渇いた。手元には水分はなく、あるのは楽屋に使っていた部屋。が、お屋敷というモノは実に複雑で、そこまでは屋敷を半周するほどの経路。開演時刻を気に掛けつつ、小走りで水を飲みに行ったことが一番の思い出です。
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2023年04月14日

ウサジイの公演日記#983

【ウサジイ昔ばなし】〈94〉・・・人形なしで…
人形劇以外の舞台に立った劇団員も、少なからずいる。人形劇での演技を評価され、他劇団からオファーがあったりする。そんな事とは縁遠いジイであるが、一度だけ人形無しで演技をせざるを得なかったことがある。愛児協20周年記念合同公演「ドリーミングボーイ」(2001年) 稽古初日の顔合わせは、俳優館のアトリエ。舞台に立つ者の中では最年長クラスだったが、ドキドキ・オロオロ。そんなジイを包んでくれたのが、演出/西田豊子氏の「あなたには年齢分の人生経験がある。それは役者としてのアドバンテージだ」(てな内容だった) 以来この言葉は、ズーッと心に刻まれている。しかし稽古になると、実に手持無沙汰。何も持たずに立っていると、自分の手をどこにもってゆけば良いか判らなくなる。稽古場では「スリッパでもいいから持たせてくれ〜!」心の中で叫んでいた。
てなわけで、半年に及ぶ稽古期間を経て迎える本番は、アートピアホール。30歳代には大ホールでの公演も経験しているが、全員フル出場的なステージで、いわゆる袖待ちの経験はない。袖から舞台を見ながら待っていると、緊張感は高まるばかり。そこで用意したのは箱馬。平台を組む時に嵩上げ用に使用する小さな木箱です。登場する直前に箱馬に頭突きし、痛みで邪念を振り払うという方法で乗り切りました(?)
確か4ステージほどあったと思うんですが、ラストステージは上手くまとめようと、無難になってしまう危険がある。かと言ってアドリブを入れる余裕もないし、用意されたアドリブほど失敗しがちなモノもない。で、計画したのは…大名役のジイが主人公に激怒する場面がある。高まる怒りの中、辺りをグルグル歩き回ることにした。その最中、どこかでワザとつまずき転ぶ。後はその状況に任せて芝居を続ける=いつもと違う状況に追い込んだわけです。…相当な勢いでバタン!転び、怒りの雄叫びをあげた。…と、客席後方から大笑いが!演出・西田氏の声だった。チョット嬉しかった思い出です。
posted by むすび座メンバー at 07:01| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年04月12日

ウサジイの公演日記#982

【ウサジイ昔ばなし】〈93〉・・・フェスティバルV
そのカーニバルは20回を契機に「フェスタ」と名を変え、体制も変わる部分があった。以来劇団挙げての参加ではなくなるが、近しい存在として毎年の上演参加が続く。…フェスは他にも数多くあり、縁なくして関わっていないモノも多々あるのですが・・・
*今は無き「とみやま人形劇祭」 奥三河・今では豊根村に合併した旧富山村。人口はわずか200人程だったはず。何故ここで?と問いたくなるほど蛇行する道を進み、長野県に入る直前の村です。人形劇界では珍しくコンクール形式で、劇団は「小坊主ちん念ぼん念」でグランプリを受賞(1996年)している。おそらくジイの参加は、その前年の「カバンがバン!」。一会場ゆえ、観客に占める人形劇人の割合が大きい。超緊張し必要以上に頑張った上演だったことと、関西の某糸操りユニットの「七匹の子ヤギ」を観た記憶が鮮明。それから夜の交流会…今では大御所になられている方々の大論争(?)が始まり、今では故人になられた方が仲裁。熱い演劇論に呆然とするジイでした。
*「杷木」から「合志」、今年は「くまもと」となった九州での見本市的児童演劇フェス。その第一回…というか端緒となった年、開催場所が決まらない中「ぶんぶく茶がま&しっぽのとれないケロすけ」で行くことになる。やがて詳細が判り、示されたのは上演の前後がフェリーという「2船中泊・3日」の行程。無理ではないが、さすがにジイもゴネタ。…結局、上演後・福岡市泊となり、屋台での夕食を楽しんだ。…のだが、上演は極めて緊張。スピーカーから聞こえる音楽が極めて遅く感じる。多分、芝居がとてっも速かったに違いない。…因みに、おひとり座・西川さんの芝居を観た最後かもしれない。
*おさんぽ劇場「ぶんぶく&マリー」で行った「喜多方」(2011年)は、東日本大震災直後で、途中様々な規制があった。が、震災に負けない力を感じた。初・喜多方は2005年頃「赤ちゃんゴリラのゴリゴリ」全日程終了後に、上演側・現地スタッフでの宿泊打ち上げがあった。ジイもギリ頑張れ(体力的に)、朝方まで呑んだくれながら話し込んでました。・・・それから佐渡大祭典等々、お祭り話は尽きません。
posted by むすび座メンバー at 13:43| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年04月10日

ウサジイの公演日記#981

【ウサジイ昔ばなし】〈92〉・・・フェスティバルU
イイダの第3回には行ってません。その頃は劇団挙げて行ってたのに、入団初年度・不参加の理由は不明。が、その後は可能な限り参加していました。と云うのも、当時の劇団事務局長・田中氏はカーニバル立ち上げに関わり、その後も中心的役割を担ってたんです。そんなこともあり、入団直後の飯田行きは名古屋IC集合で、公演車両が車列を連ねて走行して行きました。(・・・田中氏(カンちゃん)=主だったことに限っても…児演協理事を長年務める・全人協下部団体=中人協を立ち上げる・丹下氏を継いで劇団代表、等々。創立者であり、40年近く劇団を担ってくださった方なんです。事務方のイメージが強いんですが、脚本を書くのが得意。ジイが入る前には、もちろん役者をやってた。…学生時代に一度だけ観ました。「おしゃれ店の前で」)
てな訳でカーニバル時代は、ほぼ全員が毎年! パレードにも熱が入り…巨大な龍の人形を遣い、龍踊りよろしく5〜6人で練り歩く。時には街頭で、肩乗せを披露する。ある年には(依頼されたのか?)軽トラに太鼓を乗せ、叩きながらの行進もあった。ちなみにその年は雨に降られ、終わる頃には太鼓の縁がボロボロになってしまった。宿泊はもちろん公民館。若者が多い(かった)むすび座は、学生を巻き込んで大騒ぎ!なんて思われたのか(?)途中からは、市街地から離れた宿泊地を指定された。それでも他の公民館へ行っては呑んでたような…。
それから・・・飯田を契機に入団した者も少なくない。学生時代にステージを観て決心した者・迷っている時に募集の情報を得た者…。狭い(?)人形劇界が世に開ける場として、フェスティバルは有難い場でもあるのかな。
posted by むすび座メンバー at 11:31| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年04月09日

ウサジイの公演日記#980

【ウサジイ昔ばなし】〈91〉・・・フェスティバル
と言えば、人形劇界では先ず「イイダ」 いいだ人形劇フェスタの前身「カーニバル」が始まったのは1979年…なんですが、その前年(か前々年)にこんなことがありました。三重県でフェス実行委員長をしていたジイ、名演会館へ人形劇を観に行った折に愛知の人形劇人から会談を申し込まれた。会館2階にあった喫茶店「苑」で話が始まる。「東海各県でのフェスティバルが盛んになってきた。久しぶりに東海フェスを開催しないか?」という提案。快諾し、後日の連絡を待つことにした。…数ヶ月後に連絡があり「長野県飯田市で大規模なフェスを企画する。できたら参加してほしい」…様々な流れの中で、そういう所に行きついたようです。が、三重大のサークルは毎年の夏巡業。それが終わって直ぐに参加するわけにもゆかず、第一回カーニバルには、ジイ一人で行くことになった。
最近、その時のパンフレットを発見し、繰ってみた。愛知県からの上演は、フランボ・かんらん・紙ひこうき・むすび座・でこぼろ・ばんび・福祉大赤とんぼ。岐阜県・三重県からはの上演は無かったようだが、仙台〜京都と広範な地域からの参加があったようだ。「ようだ」というのは、かなり刺激のある経験だったはずなのに、ほとんど記憶がない。取り分け観劇の記憶がまったくない。残っているのはオープニングセレモニー(?)。超好天の下、むすび座の先輩(М氏・C氏)が自作「カーニバルの歌」を歌っている光景、その先輩に見つけられ「三重からも参加がありま〜す」と紹介され恥ずかしかった思い。後は…河原のような所でテント宿泊だったこと。
翌年・第二回も、学生サークルの身分で観劇参加。後輩を連れて行ったような気もするが…。宿泊はお寺だった…はず。
posted by むすび座メンバー at 07:30| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年04月06日

ウサジイの公演日記#979

【ウサジイ昔ばなし】〈90〉・・・小学校あれこれ
ジイ30歳代の大編成作品は劇場例会での公演が多かったが、もちろん地元の小学校でも上演していた。そんな公演先でのひとコマ。
岐阜県・東濃の小学校、確か1980年代半ばの「石の馬」 一幕が終わると、主人公ロロの人形が動きを止め「10分間の休憩」の小旗が垂れる。すると観ていた子たちが立ち上がり、一斉に校庭に駆け出す。体育館に残る者もいるが、かなりの人数が校庭で遊びだした。(今は多くの学校で教師からのアナウンスがあり、休憩中の過ごし方について説明がある。それと比べると、相当に驚きの状況だ)けれども、銅鑼を鳴らし二幕開演を知らせると、実に見事に(引いていった波が打ち寄せてくるように)一斉に走り帰って来て着席した。それができる子たちと、子どもを信じる教師に感動した記憶がある。
三重県・中勢地域、これも「石の馬」だったか(?) クラス毎に整列しての入場、それも事前に打ち合わせた時刻から、というのが普通だ。ところがこの日は、衣装に着替えているうちからバラバラと子ども達が入って来る。のみならずバスケットボールで遊び始める。しかも担任の姿は見えない。何かの理由で、早めに授業が終わったのだろうか?などと考えてるうちに別のクラスも入場。一応整列しているのだろうが、アバウトな列だ。が入場後、着席時にはちゃ〜んと列になっていた。メリハリがあるって言うのかな?
反対に、少々「?」が出たのは、開演前に拍手の練習をした例。いや、謝意を表す拍手を否定するわけではない。驚いたのは…「各自10回づつ手をうちなさい」…ところがやってみると、実に収まりの良い拍手となった。変に長くならず、スッと終わる拍手となる。もちろんこれは学校の方針とかではなく、担当者の好みかもしれない。…が、「?」の付いた記憶として残っている。
posted by むすび座メンバー at 21:52| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年04月02日

ウサジイの公演日記#978

【ウサジイ昔ばなし】〈89〉・・・パンチ
舞台とするエリアには、パンチカーペットを敷くことが多い。が、当劇団にそれが導入されたのは、ジイが入団するチョット前。演出・関矢氏や体技指導・向井氏の影響があったと記憶している。ジイ初年度「三匹のこぶた」では、一間幅の黒色パンチ1枚だった。舞台エリアの後方・大黒幕の下には何もなかった。他に三尺幅のパンチを予備として持っていたが、どう使ったかは記憶にない。その後間もなく、幼保作品では一間幅2枚使用が多くなり、現在に至っている。
おさんぽ劇場では開始した2011年に、パンチは1間幅1枚のみ・間口を2間4尺とした。1枚とした理由はハッキリ覚えていないが、それ以前の二人班「ブレーメン」の舞台からヒントを得たのかもしれない。演技エリア全てに敷くは必要ない…要は必要かどうかなのです。間口の理由は、名古屋市内等の遊戯室が狭いために折り込むことがあるが、面倒な作業は避けたい。それから、仕込みに使った劇団1階・会議室の間口に合わせたからかもしれない。結果、仕込みバラシにおいて、大変助かったステージが多い。(こんな事を書いたのは、舞台に於いて定式は必要だが、常識にとらわれない方が良いと思うからです)
ところでそのパンチ、園の遊戯室ではガムテで固定する。会館ホールの場合は、ガムテor養生テープ、または一寸以下の釘打ちになる。ところが、そのどれも不可!という会場もあった。それは、東京都内と大阪府南部の会館…人間、恨みは忘れないものだ。その会館での、それまでのステージがどの様に開催されていたか大いに気になるところだが、とにかく「不可」の一点張り。結局、提案して了解された方法は…フロアコンセントの蓋=金属にはガムテOK。それで賄えない箇所は、綱元にあるウェイトを置く、というモノでした。鉄の塊が舞台袖にあるのはもちろん危険なのですが、やむにやまれず…。(その後、改善されていますように)
posted by むすび座メンバー at 17:35| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする