【ウサジイ昔ばなし】〈141〉・・・こんな仕込みも…A
1980年代後半「モンキーキング」:当時の小学校公演班がカナダ・チルドレンフェスティバルで上演するため、「悟空誕生」+「西遊記」の短縮ヴァージョンを仕込んだ。ほとんどの道具などを新たに作り直す。そのため、同時期に幼児作品「さるかにばなし」他1本を仕込む予定のジイ達も手伝いに入る。おかげでレパの方は、2週間・超特急で仕込むことになるのだが…。大変だったのは、むしろ手伝いの方でした。仕込み終盤、通じない台詞をカバーするために、ステージ上に広げる字幕を製作。ホール対応のため、文字ひとつが15cm〼ほど・長さ5〜6m。布に絵具で描くと云うものでした。ニジミ防止で礬砂(どうさ)を塗ってあるのだが、紙に描くようにスラスラとはゆかない。それが何十枚もある。最後の一週間は、ジイ達数名は劇団工房に泊まり込み。朝方、やって来た役者に出来た分を渡し、そのままそこで寝る。昼過ぎに起きて、作業再開てな感じでした。そうそうある時、純正カフェインなるモノが出現。それを飲むと確かに眠くならないのだが、覚醒したまま手先だけが動かなくなり、役には立たなかった。‥‥そんな汗と涙の結晶、結局現地では使われなかったとか。
1990年代前半「名古屋心中」:劇団創立25周年(だっけ?)記念作品。「西遊記」班のうち、ジイ含む4名・幼児作品3人班×1・その他数名(新人2名含む)で、8〜9月の長丁場で創った。初めての文楽人形操作にも苦労したが、そんな人形を20数体作るのが大変だった。・・・なんて書き始めたが、調べてみたら「#960〈78〉」に出ていた。そちらをご覧ください。
ので、テーマから外れるが…ジイが属している「おさんぽ劇場」の最初の作品(2011年)が「ぶんぶく茶がま」「おばあさんとマリーちゃん」になった理由は…仕込み時期が大型作品「ピノキオ」と丸被り。劇団内には、スタッフも手伝い人材も全く期待できない。メンバー二人だけで創るためには、人形・道具などが残っている作品のリメイクが良かろう。どちらも3人編成の作品だったので、それなりに工夫は必要でした。この時に得た2人班の秘訣は「使うモノは役者の近くに置く」(=袖まで移動しない)そして演じる上でのコンセプトは「舞台芸術と云うよりは芸能」これらは、形は違ってもずっと継続しているような気がしています。
2025年05月22日
2025年05月21日
ウサジイの公演日記#1135
【ウサジイ昔ばなし】〈140〉・・・こんな仕込みも…@
(ひょっとしたら、以前と重複の記載もあるかもですが…)そして(懐かしさはあるものの、決して以下の状況をヨシとしてるわけでもなく…)ただ単に、こんなこともありましたとさ…てな感じで話します。通常のレパートリー作品以外の作品創造時の話です。
1980年代中盤「ガリヴァー」:演者は幼児作品3人班×2と、公演班以外からも2人ほどを合わせた大所帯。大型の高学年向き作品で、作品創造にもそれなりに期間が必要だった。が、当時の幼保作品は一年を通して、平日は午前&午後の二回公演が普通。それだけ需要があったので、日程を空けて仕込むような考えはなかったようだ。もちろん最後は、専念できる期間が確保されてたが…。で、どうなるかと云えば…午後公演を終えて劇団へ帰る。すると演出=関矢氏が待ち構えていて、昼間に練っていた構想に基づき稽古が始まる。多分21or22時頃まで。はっきりした記憶ではないが、そんな期間が何度かあって本仕込みに入ったように思う。ジイは入ったばかりで比較するモノもなく、疑問すらなかった。全員が20歳台だったから体力もあったのかな?あ、それから小学校班も公演が忙しく、道具など製作の手伝いをする体制も作れず…どう考えても初演に人形が間に合わない!基本構造はできていても、表面処理まで手が回らないモノがある!しかし、演出=関矢氏「役者は『人形工房の者達』と設定しよう。だから作りかけの人形があっても構わない」いや〜、ビックリ。が、観る者にとって、想像する余地残るフォルムとなりました。
同じく1980年代中盤「雪をんな」:初演は(今は無き)名演会館プロデュースと云う形で、劇団から3名+人形劇団パンの1名がメンバー。お芝居は、三味線語りに合わせて和紙人形が演じるという形。(狂言回しの人形には、面白おかしいやり取りがあったが…)2劇団合同だったし、何より三味線のY氏の都合があって、稽古は早くて19時〜・場所は名演会館。翌日も公演のある日も多く、さすがにその日の内には稽古終了…なのだが…Y氏「チョットいきますか」と御猪口を持ち上げる格好。伝統芸能の世界はそう云うものなのか?彼独自の習性なのか?お断りするわけにもゆかず、帰宅は2〜3時になったり。これまた若き体力で乗り切る日々でした。幸い和紙人形+道具は、美術=O氏がこだわりの製作で作り上げてくれた。・・・脚本=S氏・演出=T氏を含め、スタッフ等は鬼籍に入られた方が多く、時の流れを感じるばかり。
(ひょっとしたら、以前と重複の記載もあるかもですが…)そして(懐かしさはあるものの、決して以下の状況をヨシとしてるわけでもなく…)ただ単に、こんなこともありましたとさ…てな感じで話します。通常のレパートリー作品以外の作品創造時の話です。
1980年代中盤「ガリヴァー」:演者は幼児作品3人班×2と、公演班以外からも2人ほどを合わせた大所帯。大型の高学年向き作品で、作品創造にもそれなりに期間が必要だった。が、当時の幼保作品は一年を通して、平日は午前&午後の二回公演が普通。それだけ需要があったので、日程を空けて仕込むような考えはなかったようだ。もちろん最後は、専念できる期間が確保されてたが…。で、どうなるかと云えば…午後公演を終えて劇団へ帰る。すると演出=関矢氏が待ち構えていて、昼間に練っていた構想に基づき稽古が始まる。多分21or22時頃まで。はっきりした記憶ではないが、そんな期間が何度かあって本仕込みに入ったように思う。ジイは入ったばかりで比較するモノもなく、疑問すらなかった。全員が20歳台だったから体力もあったのかな?あ、それから小学校班も公演が忙しく、道具など製作の手伝いをする体制も作れず…どう考えても初演に人形が間に合わない!基本構造はできていても、表面処理まで手が回らないモノがある!しかし、演出=関矢氏「役者は『人形工房の者達』と設定しよう。だから作りかけの人形があっても構わない」いや〜、ビックリ。が、観る者にとって、想像する余地残るフォルムとなりました。
同じく1980年代中盤「雪をんな」:初演は(今は無き)名演会館プロデュースと云う形で、劇団から3名+人形劇団パンの1名がメンバー。お芝居は、三味線語りに合わせて和紙人形が演じるという形。(狂言回しの人形には、面白おかしいやり取りがあったが…)2劇団合同だったし、何より三味線のY氏の都合があって、稽古は早くて19時〜・場所は名演会館。翌日も公演のある日も多く、さすがにその日の内には稽古終了…なのだが…Y氏「チョットいきますか」と御猪口を持ち上げる格好。伝統芸能の世界はそう云うものなのか?彼独自の習性なのか?お断りするわけにもゆかず、帰宅は2〜3時になったり。これまた若き体力で乗り切る日々でした。幸い和紙人形+道具は、美術=O氏がこだわりの製作で作り上げてくれた。・・・脚本=S氏・演出=T氏を含め、スタッフ等は鬼籍に入られた方が多く、時の流れを感じるばかり。
2025年05月16日
ウサジイの公演日記#1134
【ウサジイ昔ばなし】〈139〉・・・Gボン〜シンナー
チョット面倒くさい人間であるジイは、新人がボンド作業をしていると「ここ!この容器の注意書きを読みなさい。正しく接着しないと剥がれやすいから」言われなくてもそのうち判るのだろうが、言わずにはいられないジイ。Gボンドは速乾とは云うものの、そこそこ乾きかけないと溶剤の逃げ道がなくなり、完璧な接着にはならない。使用法順守は他の接着剤も同じ。そんな訳で半乾きorほぼ乾きになってから貼るのだが、これも湿度次第で時間が変わる。1990年代「おいしい眠り方」…青年向けにチャレンジした作品でのこと。著名人を模った巨大な顔だけの人形。たたみ2/3畳ほどの大きな顔に、布を貼る作業があった。ベテラン女性陣が担当したが、大きすぎるので場所を取る。そこで「おこもり」=大根山の旧稽古場近くに借りていた4軒長屋のアパートの一室での作業となる。あいにくの雨天で乾きにくい‥‥と云うか、大気中の湿気を吸い込んで、塗り終えたボンドが白っぽく泡立ってくる。そこはベテラン陣、ドライヤーを操って張り込み作業を完遂。ジイには無理だったなぁ。
今でも多々あるが、このボンド、衣服に付いたら簡単には取れない。放っておいて後から丁寧に摘まむのが一番。そうとは知らずジイ入団した年、作業中にトレーナーに付け、しかもすぐさま擦って台無しにしてしまった。悲しいほど薄給の時代、入団後初めて意を決して購入したトレーナーだった。渡り鳥が並び飛ぶようなデザイン。まぁ、えてしてこんなもんなんでしょう。もちろん着続けましたよ、公演先へも。他には無いんだから。
…話ついでにシンナーの思い出。1990年代後半「サンショオウォーズ」舞台のバックに、無数のサンショオウオ等を配した巨大な幕を飾ることになる。美術スタッフ/小原氏に、その作業を任された。3名ほどのチームでジイがリーダー。稽古場に広げては稽古の妨げ。当時借りていた「追風」(=プレハブ倉庫を地名で呼んでいた)に幕を吊り、指令通り油性ペイントで色付する。まずコンプレッサーで逆巻く波を描き、その後スタンプでサンショオウオを押してゆく。油性ペイントを溶剤のシンナーで緩くし吹き付けてゆくのだが、本来倉庫である空間の換気は良いわけではない。2〜3分吹き付けると「退却〜!」と叫び、戸外へ逃れしばらく待つ。倉庫内の視界が復活すると作業再開。夏場であり、倉庫の床にはシンナーにやられた夏虫が無数に転がっていた。今では考えられない、危険な方法でした。
チョット面倒くさい人間であるジイは、新人がボンド作業をしていると「ここ!この容器の注意書きを読みなさい。正しく接着しないと剥がれやすいから」言われなくてもそのうち判るのだろうが、言わずにはいられないジイ。Gボンドは速乾とは云うものの、そこそこ乾きかけないと溶剤の逃げ道がなくなり、完璧な接着にはならない。使用法順守は他の接着剤も同じ。そんな訳で半乾きorほぼ乾きになってから貼るのだが、これも湿度次第で時間が変わる。1990年代「おいしい眠り方」…青年向けにチャレンジした作品でのこと。著名人を模った巨大な顔だけの人形。たたみ2/3畳ほどの大きな顔に、布を貼る作業があった。ベテラン女性陣が担当したが、大きすぎるので場所を取る。そこで「おこもり」=大根山の旧稽古場近くに借りていた4軒長屋のアパートの一室での作業となる。あいにくの雨天で乾きにくい‥‥と云うか、大気中の湿気を吸い込んで、塗り終えたボンドが白っぽく泡立ってくる。そこはベテラン陣、ドライヤーを操って張り込み作業を完遂。ジイには無理だったなぁ。
今でも多々あるが、このボンド、衣服に付いたら簡単には取れない。放っておいて後から丁寧に摘まむのが一番。そうとは知らずジイ入団した年、作業中にトレーナーに付け、しかもすぐさま擦って台無しにしてしまった。悲しいほど薄給の時代、入団後初めて意を決して購入したトレーナーだった。渡り鳥が並び飛ぶようなデザイン。まぁ、えてしてこんなもんなんでしょう。もちろん着続けましたよ、公演先へも。他には無いんだから。
…話ついでにシンナーの思い出。1990年代後半「サンショオウォーズ」舞台のバックに、無数のサンショオウオ等を配した巨大な幕を飾ることになる。美術スタッフ/小原氏に、その作業を任された。3名ほどのチームでジイがリーダー。稽古場に広げては稽古の妨げ。当時借りていた「追風」(=プレハブ倉庫を地名で呼んでいた)に幕を吊り、指令通り油性ペイントで色付する。まずコンプレッサーで逆巻く波を描き、その後スタンプでサンショオウオを押してゆく。油性ペイントを溶剤のシンナーで緩くし吹き付けてゆくのだが、本来倉庫である空間の換気は良いわけではない。2〜3分吹き付けると「退却〜!」と叫び、戸外へ逃れしばらく待つ。倉庫内の視界が復活すると作業再開。夏場であり、倉庫の床にはシンナーにやられた夏虫が無数に転がっていた。今では考えられない、危険な方法でした。
2025年05月15日
ウサジイの公演日記#1133
【ウサジイ昔ばなし】〈138〉・・・Gボン
人形や道具を作る際に、接着剤は必須。主に使うのは…木工や紙類に使う酢酸ビニル系の「白ボン」・石油製品をはじめ万能なゴム系の「Gボン」・空白部分を埋めながら固めてくれるエポキシ系の「二液」〜「」内は当劇団での通称。ボンドは「コニシ」の商品名だが、一般名詞になりかかっている気がする。その昔のセメダインの様に。(あ!GボンドはコニシのボンドG10でした)他に瞬間接着剤を使用することもあるし、ゴム系でもスチロール可のモノをはじめ種類は多い。・・・実は本日、「ニルス」に登場する小人の頭にガーゼを貼る作業をした。貼りながらGボンドの旧い話題が出た。そんな入口からアレコレ思い出した。
劇団では大量に使うため、通常3sの大容量缶を購入する。そこから小分けして使う。今はジャム等の空き瓶に移し、プラスティック製のヘラで塗っている。パレットナイフだったり、竹を削った特製品を使う者もいる。が、ジイな入団した頃は、もう少し大きめのインスタントコーヒーの空き瓶が多かった。塗るのは、ボンドにオマケで付いてくる刷毛。竹の柄+黒い毛足の巨大歯ブラシ状のモノ。大きな面に塗るには便利だが、細かい作業には向いていない。刷毛先をノコで切って小さくしたり、最終的には自分の指で塗っていた。溶剤としてシンナー系が使われているのだから体に良いわけない。でも…「慣れりゃ指に付かなくなる。それがプロの証明だ」なんて意味不明なコトを言いながら作業していた。
購入先も変遷。最初は地元・鳴海商店街の塗料屋だったと記憶している。ペンキとは溶剤が同じだからだろうか?(因みに白ボンドも、地元のインテリアも扱う雑貨屋でした)ホームセンターができてからは便利になったが、購入時に署名が必要な時期があった。大容量だと使われているシンナーも大量で、どうやら悪用=シンナー遊び対策だったらしい。 (…つづく)
人形や道具を作る際に、接着剤は必須。主に使うのは…木工や紙類に使う酢酸ビニル系の「白ボン」・石油製品をはじめ万能なゴム系の「Gボン」・空白部分を埋めながら固めてくれるエポキシ系の「二液」〜「」内は当劇団での通称。ボンドは「コニシ」の商品名だが、一般名詞になりかかっている気がする。その昔のセメダインの様に。(あ!GボンドはコニシのボンドG10でした)他に瞬間接着剤を使用することもあるし、ゴム系でもスチロール可のモノをはじめ種類は多い。・・・実は本日、「ニルス」に登場する小人の頭にガーゼを貼る作業をした。貼りながらGボンドの旧い話題が出た。そんな入口からアレコレ思い出した。
劇団では大量に使うため、通常3sの大容量缶を購入する。そこから小分けして使う。今はジャム等の空き瓶に移し、プラスティック製のヘラで塗っている。パレットナイフだったり、竹を削った特製品を使う者もいる。が、ジイな入団した頃は、もう少し大きめのインスタントコーヒーの空き瓶が多かった。塗るのは、ボンドにオマケで付いてくる刷毛。竹の柄+黒い毛足の巨大歯ブラシ状のモノ。大きな面に塗るには便利だが、細かい作業には向いていない。刷毛先をノコで切って小さくしたり、最終的には自分の指で塗っていた。溶剤としてシンナー系が使われているのだから体に良いわけない。でも…「慣れりゃ指に付かなくなる。それがプロの証明だ」なんて意味不明なコトを言いながら作業していた。
購入先も変遷。最初は地元・鳴海商店街の塗料屋だったと記憶している。ペンキとは溶剤が同じだからだろうか?(因みに白ボンドも、地元のインテリアも扱う雑貨屋でした)ホームセンターができてからは便利になったが、購入時に署名が必要な時期があった。大容量だと使われているシンナーも大量で、どうやら悪用=シンナー遊び対策だったらしい。 (…つづく)
2025年05月11日
ウサジイの公演日記#1132
【ウサジイ昔ばなし】〈137〉・・・ピアノ線A
1990年代初頭「悟空誕生」:ジイが演じていた仙人の住まい「斜月三星洞」、その門を模った大道具の扉。取外し蝶番の部品にピアノ線が使われていた。径4o程のL字型の小さな部品。旅公演中の仕込み時に…見つからない!アレが無いと門の態を成すことができない!おそらく13時会場入りの18時開演と云ったところだったろう。時間はある、幸いピアノ線の予備もあったので作ることにした。この太さだと、劇団ではバーナーで真っ赤に熱したところをハンマーで叩いて曲げる。しかし熱源はない。仕方なく大工作業用の金槌で叩いて曲げる。始めは駐車場脇のコンクリートの角を使っていたが、ピアノ線の硬さに負けて崩れそうになる。で、搬入口の鉄製の縁を頼りに、なんとか「く」の字にはなり、そのツアーをしのげた。今考えれば、曲げずともテープ類でストッパーを作れば済んだものを…。焦っていたんですねぇ。
2000年頃「まっくろネリノ」かな?:愛知県内の幼保公演から松本の保育園巡演に向かう日のこと。長時間の移動とて、舞台のバラシを急いでいた。と…痛!!背景を架けるためのピアノ線を踏んでしまった。引っ掻けるために曲げてあったので、先は上を向いている。その上に乗っかてしまった。尖っていないので刺さりはしない。少々痛かったが撤収を済ませ、松本へ移動。その途中、ジワジワと痛みが膨らんでくる。到着する頃には我慢ギリギリ。病院へ行き理由を話すと「一旦は相当入り込んだのでしょうか、いずれにしても内部の組織が傷んでいますねぇ」…これと云った治療方法もなく、絆創膏的なモノを貼ってもらい帰りました。
2010年代:TV・CMでの人形操演の依頼が来た。人形は別の方が作ってくれるらしい。ジイ達は動かすだけで良いという。指定されたスタジオに赴くと、数層の蹴込み枠・賑やかなライティング・数台のカメラなどがセットされ、いかにもプロの世界を感じる。(ジイ達も操作のプロではありますが、なにせマイナーな業界ゆえオドオド感は否めない)ところが渡された人形(=いわゆるパクパク人形+片手のみ指金)を手にし、唖然・・・。本体の作りにも難はあるが、問題は指金が「自由自在」で出来ている!ピアノ線が手に入らず太めの針金(=番線)を使用する場合はあるが、曲げやすい性質のアルミ材とは…。これでは手を動かそうにも力が伝わらない。とにかく現場にあった棒状のモノを添木にして操作した。遣うことのない方が映像だけで作るとこうなるのでしょう。
1990年代初頭「悟空誕生」:ジイが演じていた仙人の住まい「斜月三星洞」、その門を模った大道具の扉。取外し蝶番の部品にピアノ線が使われていた。径4o程のL字型の小さな部品。旅公演中の仕込み時に…見つからない!アレが無いと門の態を成すことができない!おそらく13時会場入りの18時開演と云ったところだったろう。時間はある、幸いピアノ線の予備もあったので作ることにした。この太さだと、劇団ではバーナーで真っ赤に熱したところをハンマーで叩いて曲げる。しかし熱源はない。仕方なく大工作業用の金槌で叩いて曲げる。始めは駐車場脇のコンクリートの角を使っていたが、ピアノ線の硬さに負けて崩れそうになる。で、搬入口の鉄製の縁を頼りに、なんとか「く」の字にはなり、そのツアーをしのげた。今考えれば、曲げずともテープ類でストッパーを作れば済んだものを…。焦っていたんですねぇ。
2000年頃「まっくろネリノ」かな?:愛知県内の幼保公演から松本の保育園巡演に向かう日のこと。長時間の移動とて、舞台のバラシを急いでいた。と…痛!!背景を架けるためのピアノ線を踏んでしまった。引っ掻けるために曲げてあったので、先は上を向いている。その上に乗っかてしまった。尖っていないので刺さりはしない。少々痛かったが撤収を済ませ、松本へ移動。その途中、ジワジワと痛みが膨らんでくる。到着する頃には我慢ギリギリ。病院へ行き理由を話すと「一旦は相当入り込んだのでしょうか、いずれにしても内部の組織が傷んでいますねぇ」…これと云った治療方法もなく、絆創膏的なモノを貼ってもらい帰りました。
2010年代:TV・CMでの人形操演の依頼が来た。人形は別の方が作ってくれるらしい。ジイ達は動かすだけで良いという。指定されたスタジオに赴くと、数層の蹴込み枠・賑やかなライティング・数台のカメラなどがセットされ、いかにもプロの世界を感じる。(ジイ達も操作のプロではありますが、なにせマイナーな業界ゆえオドオド感は否めない)ところが渡された人形(=いわゆるパクパク人形+片手のみ指金)を手にし、唖然・・・。本体の作りにも難はあるが、問題は指金が「自由自在」で出来ている!ピアノ線が手に入らず太めの針金(=番線)を使用する場合はあるが、曲げやすい性質のアルミ材とは…。これでは手を動かそうにも力が伝わらない。とにかく現場にあった棒状のモノを添木にして操作した。遣うことのない方が映像だけで作るとこうなるのでしょう。
2025年05月10日
ウサジイの公演日記#1131
【ウサジイ昔ばなし】〈136〉・・・ピアノ線
人形劇界ではお馴染みのピアノ線。機械工業では多用されているに違いないが、それ以外こんなに必要とされている業界はないだろう。今、仕込み真っ最中の「ニルス」、最近ジイに振られた作業がピアノ線曲げ。それで様々思い出したわけです。因みにその作業は…人形のパーツにピアノ線を装着し、数カ所曲げると云うモノ。幸い径1.5oとペンチで曲げられる太さだが、同じ面で曲げ→それとは垂直面で曲げ→・・となると、そう易々とはゆかない。ねじれた格好になりやすい。そこで今回ジイが考えたのは、(説明しにくいのだが)パーツが収まる溝のある木型の治具を作り、それからはみ出た線を曲げるという方法。これだと平面で処理できる。最終的には職人的勘(?)に頼ることになるんですが、何とかできました。
さてそのピアノ線、今は首都圏の業者から取り寄せている。数年前までは、地元・緑区の業者に赴き、直接購入していた。おそらく付近の工場へ納入する会社だと思うが、快く分けてくださっていた。(2o以下の細いモノは、鳴海駅近くの模型屋で買うこともあった)が、何かの理由で営業を止めてしまった。という訳で通販に頼ることになるのだが…数年前「スイミー」仕込み時のPC検索では、必要とする径2oがなかなか見つからない。製造元の工場へ問合わせると「出来上がりはロール状で保管している。直線に伸ばして切断するのに経費がかかる。少量では厳しい価格になるよ」とのこと。…その時はハンズアネックス(中区栄)で60p長のモノを必要ギリ確保して乗り越えた。(…その後、今の購入先をどう見つけたか?不明だが、良かった!)
針金とは異なって鋼鉄製のため、ペンチで切断できるのは径1oチョットまで。それ以上の太さになると、ワイヤーカッターを使う。劇団には数種類のカッターがあり、太さによって使い分けているが、3oにもなるとかなり難しい。最近は電動糸鋸の下で休眠中の超大型カッター。これだと3oもOKなのに、形状が不思議だからか(?)使われることが少なくなった。(電動ディスクグラインダーでの切断が主流かな?)因みに、この超大型、その昔は「閻魔大王」と呼ばれていた。・・・次回は、ピアノ線にまつわる思い出ばなし。
人形劇界ではお馴染みのピアノ線。機械工業では多用されているに違いないが、それ以外こんなに必要とされている業界はないだろう。今、仕込み真っ最中の「ニルス」、最近ジイに振られた作業がピアノ線曲げ。それで様々思い出したわけです。因みにその作業は…人形のパーツにピアノ線を装着し、数カ所曲げると云うモノ。幸い径1.5oとペンチで曲げられる太さだが、同じ面で曲げ→それとは垂直面で曲げ→・・となると、そう易々とはゆかない。ねじれた格好になりやすい。そこで今回ジイが考えたのは、(説明しにくいのだが)パーツが収まる溝のある木型の治具を作り、それからはみ出た線を曲げるという方法。これだと平面で処理できる。最終的には職人的勘(?)に頼ることになるんですが、何とかできました。
さてそのピアノ線、今は首都圏の業者から取り寄せている。数年前までは、地元・緑区の業者に赴き、直接購入していた。おそらく付近の工場へ納入する会社だと思うが、快く分けてくださっていた。(2o以下の細いモノは、鳴海駅近くの模型屋で買うこともあった)が、何かの理由で営業を止めてしまった。という訳で通販に頼ることになるのだが…数年前「スイミー」仕込み時のPC検索では、必要とする径2oがなかなか見つからない。製造元の工場へ問合わせると「出来上がりはロール状で保管している。直線に伸ばして切断するのに経費がかかる。少量では厳しい価格になるよ」とのこと。…その時はハンズアネックス(中区栄)で60p長のモノを必要ギリ確保して乗り越えた。(…その後、今の購入先をどう見つけたか?不明だが、良かった!)
針金とは異なって鋼鉄製のため、ペンチで切断できるのは径1oチョットまで。それ以上の太さになると、ワイヤーカッターを使う。劇団には数種類のカッターがあり、太さによって使い分けているが、3oにもなるとかなり難しい。最近は電動糸鋸の下で休眠中の超大型カッター。これだと3oもOKなのに、形状が不思議だからか(?)使われることが少なくなった。(電動ディスクグラインダーでの切断が主流かな?)因みに、この超大型、その昔は「閻魔大王」と呼ばれていた。・・・次回は、ピアノ線にまつわる思い出ばなし。
2025年04月25日
ウサジイの公演日記#1130
【ウサジイ昔ばなし】〈135〉・・・演技4
3人班が基本なんです、むすび座は。創立者曰く「三人からが集団」、つまりアンサンブルとしての形はそれ以上で成立するという訳です。なので(創立直後を除き)長年二人班はなかった。できたのは2000年頃、お母さん班を作った時。子育てしながら舞台に立つために、3名が2人班をローテーションで回してゆく形で。これはその後、数年続きました。その経験を引き継いで、ベテラン2人が4年ほど活動した。それに続いたのがジイ達=おさんぽ劇場。…あ、この件に関しては、また別の機会に。
で、二人班での公演活動に入ったジイ。メンバーCちゃんは年齢はそこそこ離れていますが、劇団歴の差は4年。入団後しばらくは役者〜子育て時に制作部+脚本を書いていた多才な人物。ジイとしては、オチオチ胡坐をかいている訳にはゆかない状況…というか…むしろスタンスの一致を感じる。子どもに対する・演技に対する感覚に一致が多い。なかなかに心地よいステージを過ごせた。その中で「芝居とは・演技とはどうあるべきか?」が進化できたような気がする。旨く言えないのだが、作品創造の段階で&日々の上演の中で実験と検証を繰り返してきたような感じです。
「ぶんぶく茶がま」=和尚のいい加減な演技・「ゆいとケンムン」=オバア人形の皮膚感覚を実感する・「ヤンチャメッチャブー」=超即興性・「カミナリカレー」=何もしない時間を楽しむ・「ともだちや」=人形を振り回す演技もOK…等々。新しいお芝居に出会う度に、何かしら新しい演技の在り様を見つけてきた気がする。・・・そのうち、他班の作品を観たり、他劇団のお芝居に触れたりするうちに、チョット過激に云うと「人形なんてあれば良い」=良き人形に越したことはないが、要は演技だ。更には「演技は二の次、人間性・役者の思想が重要」なんて考えるようにもなる。絵画においてデッサンの力量は必要だが、それが上手いだけではそれ以上には進まない…と思うのです。
そんなことを思う頃に出会った言葉…「演劇というアートの素材である俳優は、虚構の空間に確乎として存在するのが役目です。俳優は、存在できないと説明の演技に頼ることになります。脚本の内容や人物を説明するための演技は、演劇の魅力を半減させてしまいます」
3人班が基本なんです、むすび座は。創立者曰く「三人からが集団」、つまりアンサンブルとしての形はそれ以上で成立するという訳です。なので(創立直後を除き)長年二人班はなかった。できたのは2000年頃、お母さん班を作った時。子育てしながら舞台に立つために、3名が2人班をローテーションで回してゆく形で。これはその後、数年続きました。その経験を引き継いで、ベテラン2人が4年ほど活動した。それに続いたのがジイ達=おさんぽ劇場。…あ、この件に関しては、また別の機会に。
で、二人班での公演活動に入ったジイ。メンバーCちゃんは年齢はそこそこ離れていますが、劇団歴の差は4年。入団後しばらくは役者〜子育て時に制作部+脚本を書いていた多才な人物。ジイとしては、オチオチ胡坐をかいている訳にはゆかない状況…というか…むしろスタンスの一致を感じる。子どもに対する・演技に対する感覚に一致が多い。なかなかに心地よいステージを過ごせた。その中で「芝居とは・演技とはどうあるべきか?」が進化できたような気がする。旨く言えないのだが、作品創造の段階で&日々の上演の中で実験と検証を繰り返してきたような感じです。
「ぶんぶく茶がま」=和尚のいい加減な演技・「ゆいとケンムン」=オバア人形の皮膚感覚を実感する・「ヤンチャメッチャブー」=超即興性・「カミナリカレー」=何もしない時間を楽しむ・「ともだちや」=人形を振り回す演技もOK…等々。新しいお芝居に出会う度に、何かしら新しい演技の在り様を見つけてきた気がする。・・・そのうち、他班の作品を観たり、他劇団のお芝居に触れたりするうちに、チョット過激に云うと「人形なんてあれば良い」=良き人形に越したことはないが、要は演技だ。更には「演技は二の次、人間性・役者の思想が重要」なんて考えるようにもなる。絵画においてデッサンの力量は必要だが、それが上手いだけではそれ以上には進まない…と思うのです。
そんなことを思う頃に出会った言葉…「演劇というアートの素材である俳優は、虚構の空間に確乎として存在するのが役目です。俳優は、存在できないと説明の演技に頼ることになります。脚本の内容や人物を説明するための演技は、演劇の魅力を半減させてしまいます」
2025年04月20日
ウサジイの公演日記#1129
「冬ソナ」韓国・春川と姉妹都市の岐阜県・各務原市で「ももん&カミナリ」の公演。主催は、子ども食堂などに取組んでいる社団法人。共催の子ども劇場メンバーが関りを持っている。そんな流れで実現したステージでした。会場作りや当日の流れは、劇場さんのベテラン勢と中高生が担ってくれた。けれども実は、ここも劇場運営が困難になっているらしい。こんなに元気な方々が沢山いるのに…色々と難しいことがあるのだろう。
ところで上演は、客席の反応が二重丸!取り分け女子・熟年層の笑い声が響いていた。「カミナリ」の(子どもにはチョット難しいかなぁ?)的な爺さんやカミナリ母さんの機微に的確に反応してくれる。例えば…ゴロちゃんに褒められ、思わず張り切ってしまう爺さん・有無を言わせずゴロちゃんを引っ張り上げる母さん・爺さんの「まったく喧しい親子だ」等々。ジイ達としては「してやったり」。おそらく長年舞台を観てこられた方々なんだろう、入り込み方を知ってるんですね。
3歳未満の子たちもチラホラ。「ももん」では相当に乗ってくれる。「カミナリ」になってもじっと観てるが、前列の女の子が舞台際までやって来ては、戻って行く。転換の音楽には体を揺らしているから、飽きてしまったのではなさそう。客席両端の係の方は少々心配されていたようだが、ジイ達にとっては嬉しい反応でした。あの位の子は、様々な距離・角度で観ていたいのだろうか?
ところで上演は、客席の反応が二重丸!取り分け女子・熟年層の笑い声が響いていた。「カミナリ」の(子どもにはチョット難しいかなぁ?)的な爺さんやカミナリ母さんの機微に的確に反応してくれる。例えば…ゴロちゃんに褒められ、思わず張り切ってしまう爺さん・有無を言わせずゴロちゃんを引っ張り上げる母さん・爺さんの「まったく喧しい親子だ」等々。ジイ達としては「してやったり」。おそらく長年舞台を観てこられた方々なんだろう、入り込み方を知ってるんですね。
3歳未満の子たちもチラホラ。「ももん」では相当に乗ってくれる。「カミナリ」になってもじっと観てるが、前列の女の子が舞台際までやって来ては、戻って行く。転換の音楽には体を揺らしているから、飽きてしまったのではなさそう。客席両端の係の方は少々心配されていたようだが、ジイ達にとっては嬉しい反応でした。あの位の子は、様々な距離・角度で観ていたいのだろうか?
2025年04月19日
ウサジイの公演日記#1128
【ウサジイ昔ばなし】〈134〉・・・演技3
30歳代は小学校公演班。新人から中堅、そしてベテラン側に差し掛かる時代。有難いことに、おやこ・子ども劇場公演も多く、地元の小学校公演と合わせると、現在の幼保公演並みの数をこなしていた。という訳で、とにかく走り続けた感がある。取り分け西遊記シリーズでは、先輩方の影響が大きかったかなぁ。悟空役=その後、劇団を立ち上げたN氏・八戒役=その後、大型作品にこだわり…早逝されたU氏・そしてジイが悟浄。人間の本質はそう易々とは見えないが、チョット見は役柄通りの方々であった。(ただ共通点=大酒飲みは間違いない)N氏には卓越した操作術・台詞術を、U氏には作品に対する想いの深さを学んだ。そして、役者と云うモノはその人らしさが一番だと思えるようになれた。自分は自分らしくやってゆく。それがある面、一番だと教えてもらった先輩です。
40歳になるころ、幼保班に戻る。大規模班にも難しさはあるけれど、3人班は少人数なりの大変さもある。そしてジイは、教えてもらう立場ではなくなった…のかな?2〜3年でメンバーが変わったりするのだが、最初の3〜4グループではリーダーであった。そして必ず、新人がメンバーに加入する。ジイなりの演技観を伝えるに、相手の感覚を考慮しなくちゃならない。なかなか難しい作業なんだが、自らがもう一度考える良いチャンスでもあったような気がする。そんなこんなの時代が15年ほどあって、2人班が始まる。・・・もう一回
30歳代は小学校公演班。新人から中堅、そしてベテラン側に差し掛かる時代。有難いことに、おやこ・子ども劇場公演も多く、地元の小学校公演と合わせると、現在の幼保公演並みの数をこなしていた。という訳で、とにかく走り続けた感がある。取り分け西遊記シリーズでは、先輩方の影響が大きかったかなぁ。悟空役=その後、劇団を立ち上げたN氏・八戒役=その後、大型作品にこだわり…早逝されたU氏・そしてジイが悟浄。人間の本質はそう易々とは見えないが、チョット見は役柄通りの方々であった。(ただ共通点=大酒飲みは間違いない)N氏には卓越した操作術・台詞術を、U氏には作品に対する想いの深さを学んだ。そして、役者と云うモノはその人らしさが一番だと思えるようになれた。自分は自分らしくやってゆく。それがある面、一番だと教えてもらった先輩です。
40歳になるころ、幼保班に戻る。大規模班にも難しさはあるけれど、3人班は少人数なりの大変さもある。そしてジイは、教えてもらう立場ではなくなった…のかな?2〜3年でメンバーが変わったりするのだが、最初の3〜4グループではリーダーであった。そして必ず、新人がメンバーに加入する。ジイなりの演技観を伝えるに、相手の感覚を考慮しなくちゃならない。なかなか難しい作業なんだが、自らがもう一度考える良いチャンスでもあったような気がする。そんなこんなの時代が15年ほどあって、2人班が始まる。・・・もう一回
2025年04月14日
ウサジイの公演日記#1127
静岡県の中ほど、お茶畑の広がる牧之原市で「ともだちや」の劇場公演。実はこの作品、諸々の事情で昨年秋を以て終演の予定でした。が、これまた諸々の事情で上演が続くことになりました。その頃に旧知の方から連絡が入った「『ともだちや』ってまだできるの?秋までって書いてあるけど」丁度上演の延長が話し合われている時で、ありがたいことに公演が実現しました。
…で、旧知の方と云うのは、ジイの大学サークル時代の後輩である(知る人は知ってる)半農半芸の人形劇人…の奥さん。1980年代・ジイが「石の馬」でうかがって以来、大変お世話になっている。おやこ劇場の活動に尽力されているわけだが、多分に漏れず会員減少の傾向。けれども、その前向きな気持ちには、こちらが励まされるほど。この日の開演前の挨拶でも「今日、新入会が4名ありました。これで劇場の会員は30名になりました!」…そして会場からは大きな拍手。また、今年度は劇場の周年事業で、地元に所縁のあるパフォーマーの連続公演(年間5回)を企画。行政に助成金を申請しているが、下りなくてもやります!とのこと。
さて搬入時には3名程の方が手伝ってくださったのだが、お二人は車で小一時間かけて来たという。お住まいの地域にも劇場はあるのだが、この劇場の雰囲気が好きで会員になっているらしい。確かに、出会ってきた劇場さんにはそれぞれの色がある。どれが良いわけではなく、構成メンバーの雰囲気が反映されていて面白い。
…で、旧知の方と云うのは、ジイの大学サークル時代の後輩である(知る人は知ってる)半農半芸の人形劇人…の奥さん。1980年代・ジイが「石の馬」でうかがって以来、大変お世話になっている。おやこ劇場の活動に尽力されているわけだが、多分に漏れず会員減少の傾向。けれども、その前向きな気持ちには、こちらが励まされるほど。この日の開演前の挨拶でも「今日、新入会が4名ありました。これで劇場の会員は30名になりました!」…そして会場からは大きな拍手。また、今年度は劇場の周年事業で、地元に所縁のあるパフォーマーの連続公演(年間5回)を企画。行政に助成金を申請しているが、下りなくてもやります!とのこと。
さて搬入時には3名程の方が手伝ってくださったのだが、お二人は車で小一時間かけて来たという。お住まいの地域にも劇場はあるのだが、この劇場の雰囲気が好きで会員になっているらしい。確かに、出会ってきた劇場さんにはそれぞれの色がある。どれが良いわけではなく、構成メンバーの雰囲気が反映されていて面白い。